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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー  富士絹(フジシルク)の発明家 井上篤太郎(山奥の農家の息子に生まれて、教師、政治家、自由民権運動家、紡績会社の技師長を経て、玉川電気鉄道や王子電気軌道の取締役になった京王電気軌道の創業者)

じっくりヒストリー IP HACK

2025.10.26

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。京王電鉄は、多摩地域から神奈川県の北部にある路線を管理している大手私鉄です。京王線の営業を行っていた京王電気軌道、そして井の頭線の営業を行っていた帝都電鉄という2つの企業が統合して、現在の京王電鉄の設立となりました。京王電気軌道は開業当初、路線を建設したものの資金難に悩んでいました。その苦難を乗り越え、やがて安定した経営基盤を整えられるようになります。京王電気軌道を設立し、経営者として活躍したのが明治期に活動した井上篤太郎です。彼は政治家としての才能にも優れ、貴族院議員として活動したことでも知られています。今回はそんな井上篤太郎の生涯を振り返っていきましょう。

井上篤太郎の前半生(山奥の農家の息子に生まれて、教師、政治家、自由民権運動家、紡績会社の技術者を経て、京王電鉄の経営者になる)

井上篤太郎は1859年、相模国愛甲郡三田村(現在の神奈川県厚木市三田)で生まれました。明治大学の前身にあたる明治法律学校を卒業した後、愛甲郡の役所で書記を務めました。やがて井上は政界へ打って出ることを決心。村会議員、神奈川県会議員を経て、1912年の第11回衆議院議員総選挙で当選を果たします。1期というわずかな任期だったものの、衆議院議員としても活動しました。

井上は議員の任期満了に伴って政界を離れ、会社員として働く道を選びます。日本絹綿紡績に技師長として入り、頭角を現しました。また、このとき、個人名義で養蚕・絹関係の「蚕繭解除液、絹糸紡績用原料精錬法等の発明特許権」を取得します。しかし、日本絹綿紡績の経営陣との確執から退職をすることになり、富士瓦斯紡績(現在の富士紡ホールディングス)に上記の特許を売り込みにいったところ、井上の才覚は当時社長を務めた和田豊治の目にも止まり、厚遇を得られることに。「特許を売りに行った自分が、特許ばかりでなく身体まで売ってしまった」との言葉が残っています。その後、富士瓦斯紡績では小山工場長、商務部長を歴任し、富士絹(フジシルク)という大ヒット商品を発明し、さらに、なんと日本絹綿紡績を買収することになってしまいました。そして、和田の紹介から玉川電気鉄道や王子電気軌道の取締役に抜擢され、経営の立て直しに着手しました。いずれの会社でも井上は素晴らしい実績を残し、見事に赤字を回復させる経営手腕を見せたのです。

同時期、多摩川エリアに路線をかまえる京王電気軌道は、笹塚駅から調布駅までの区間を通る京王線の建設を行おうとしていました。新宿追分駅ー府中駅間の路線開業には成功したものの、府中駅から東八王子駅の区間の建設資金が不足していたのです。計画が頓挫する危機に瀕し、京王電気軌道は森村財閥の系列に入って融資を受け、経営は和田が参画することになります。和田は第3代専務として井上を送り込み、井上は電灯電力供給事業の拡大と京王線の全線開通を実現しました。その後30年ほど同社の経営を担い、バス事業への進出や多摩川エリアでのレジャー施設の建設、教育機関や施設の誘致などに取り組み、経営の安定化に大きく貢献しました。

1934年、明治大学専務(財務)理事に就任。数多くの会社で社外取締役を務めながら、1946年の貴族院廃止まで勅選議員として政治活動にも取り組みました。彼はその生涯で、生糸および絹紡績に関する特許を十数件ほど取得しました。

井上篤太郎の後半生(京王電鉄と東急電鉄との合併に反対して独立を守ろうとするが、東急に買収されてしまう)

1938年、鉄道・バス事業会社の統合を目的として陸上交通事業調整法が施行されました。国内に交通機関を持つ多くの会社が統合され、京王電気軌道も東京市内のバス路線を東京市(現在の都営バス)に譲渡しなくてはなりませんでした。さらに日本軍は日中戦争の長期化により、国家総動員法を発令してすべての人的・物的資源を国の管理下に置きました。京王電気軌道の主力事業だった配電事業が国家のものとなってしまったことで、経営状態はさらに悪化して行きました。

そんな折、京王電気軌道に東京急行電鉄(東急)との統合の話がやってきます。井上は合併に反対し、あくまで経営権を独立して自社で持つことにこだわりました。京王の社長であり、筆頭株主である大日本電力の社長も兼任していた穴水熊雄は井上の意を汲んで東急への株式譲渡を断り続けました。しかし主力事業を奪われた京王は悪化する経営状況をどうすることもできず、最終的には東急に株式を明け渡すことを決めたのです。1944年、京王線は東急京王営業局(大東急の一部)となり、戦時輸送を担うことになります。

合併に伴い、井上は経営の第一線から退くことを決め、東京急行電鉄相談役のポストに就きました。取締役の後藤正策、社長の穴熊の次男である穴水清彦が東急取締役に就任しました。井上は辞職の際に受け取った退職金の15%を従業員に配り、50%を故郷の三田村に寄付しました。彼の退職金は小学校の建設や橋の建設などに使用されました。

井上が逝去する半年前に、京王電気軌道は京王帝都電鉄として東急から分離し、独立経営を取り戻しました。京王電鉄はその後、現在まで続く大手私鉄として路線の運営を行っています。

今回は、京王電鉄の前身である京王電気軌道、その実質的な設立者である井上篤太郎の生涯を振り返りました。数多くの会社の経営を立て直し、危機から救ってきたその手腕は非常に見事なものです。設立時の資金難や戦時中の経営危機を乗り越えてきた京王電気軌道の歩みは、とても魅力的なストーリーでした。私たちが普段何気なく乗っている電車にも、誰かが心血を注いできた歴史があるのかもしれませんね。

 

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