【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー スーパーコンピュータ「京」の発明家 井上愛一郎(富士通で常務理事を務めるが富士通社内の紛争に巻き込まれて失脚した可哀想な研究者)
2025.10.24

AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。スーパーコンピュータは、膨大な桁の計算を高速で行う処理能力を備えたコンピュータです。文部科学省が主導する「次世代スーパーコンピュータプロジェクト」のもと、計算科学の研究を進めるべくスーパーコンピュータの開発が進められてきました。最新モデルの「富嶽」は1秒間に約40京回の計算ができ、世界でもトップクラスの処置能力を誇っています。「富嶽」の前身にあたる「京」は、理化学研究所と富士通が共同開発したスーパーコンピュータです。その開発の立役者となったのが、かつて富士通で常務理事を務めた井上愛一郎です。しかしそんな彼の貢献もむなしく、当時の社長の訴訟をめぐるいざこざに巻き込まれ、富士通を追われることになってしまいます。今回はそんな井上愛一郎の生涯を振り返っていきましょう。
井上愛一郎の前半生(富士フィルムから富士通に移ってコンピュータの研究で大活躍する)
井上愛一郎は1957年、佐賀県の嬉野町で生まれました。東京大学工学部舶用機械工学科を卒業した彼は富士写真フイルム株式会社(現在の富士フイルム)に入社し、写真フィルムの製造工程を効率化する仕事に従事しました。当時の110フィルムに代わる新規格であるディスクフィルムの製造が高く評価され、1983年に加工設備実用化グループの代表として社長賞を受賞しました。
この年、井上は富士フイルムから富士通株式会社へと転勤することになります。富士通ではコンピュータのCPUを設計する業務に携わり、長年にわたって高性能なマシンを生み出し続けました。
1990年代から、井上はその本領を発揮し始めます。1991年にはM780の各種仕様を整備し、あらゆる機能の設計も担当しました。彼が整備した各種仕様は、現行シリーズ機のメインフレームにもほぼそのまま受け継がれています。1995年からはアムダール社向けOEMプロジェクトが再開され、井上は試験サポートを取りまとめる立場に置かれました。このときに、井上はアウト・オブ・オーダー方式と命令リトライを両立させる同期一括更新方式を打ち出し、特許を取得しました。アウト・オブ・オーダー方式はその後の富士通で開発されるすべてのメインフレームのCPUに適用され、のちに誕生するスーパーコンピュータ「京」にも使用されました。さらに北米にある子会社HALでDenaliの開発不調を立て直し、この一件を通じて開発したSPARC64 Vを富士通のUNIXサーバであるPRIMEPOWERに搭載して2003年に出荷しました。SPARC64シリーズはさらに進化を遂げ、PRIMEPOWERの性能は世界一に達したのです。井上の取り組みは各所から高く評価され、経済産業省より第一回日本ものづくり大賞優秀賞を、翌年には財団法人新技術開発財団より市村産業賞貢献賞を受賞しました。
井上愛一郎の後半生(スーパーコンピュータ「京」の開発で活躍するが、富士通社内の紛争に巻き込まれて失脚する)
これまでの成果から、井上は富士通のGSシリーズのメインフレームとUNIXサーバ用のCPUのすべての開発を担当することになります。
2005年、理化学研究所と文部科学省は「次世代スーパーコンピュータプロジェクト」を開始。このプロジェクトは翌年には国家プロジェクトとなり、国をあげてのコンピュータ開発が行われるようになります。開発するコンピュータは「京」と名付けられ、汎用的な計算機として設計されていました。開発には富士通も深く関わっており、井上は「京」の開発責任者としてプロジェクトを主導しました。CPUには富士通のSPARCベースのSPARC64TM VIIIfxが採用され、その他の技術も全面的に富士通のものが使用されました。
ところが、井上のキャリアに陰を落とす出来事が起こります。
井上は、「京」に搭載したCPUをサーバー事業にも展開しようと考えていました。しかしこの計画は、ビジネス向けサーバー事業の利権が失われることを恐れた社内の幹部によって阻まれてしまいます。さらに同時期、当時の社長だった野副州旦が退任に追い込まれることに。この一件に関して、野副は不当な解雇だとして富士通を提訴しますが、判決は覆らず、代表交代という流れとなりました。
野副の退任は、井上にも大きな影響を与えました。「京」の開発責任者というポストにありながら、自由に設計をすることができないように圧力がかかったのです。結局彼は富士通を離れ、野副からの誘いに応じて理研へと移ります。しかし理研と富士通は共同でスーパーコンピュータの開発を行う関係上、すべてのしがらみから逃げることはできませんでした。結局、井上は「京」の後継機を開発するプロジェクトに関わりたいと思っていましたが、最終的にはこのプロジェクトから外されることになります。
現在、井上は清風学園の常勤顧問として、「情報」の授業を行っています。
今回は、スーパーコンピュータ「京」の開発責任者として多大な貢献を果たした井上愛一郎の生涯を振り返りました。彼が富士通で成し遂げた実績は数多く、科学の発展に寄与するものでした。だからこそ、会社の方針や内部の抗争に巻き込まれたことで開発の現場を離れざるを得なかったことは本当に惜しいと感じます。これからのコンピュータ開発がどのように進化していくのか、楽しみにしたいですね。



