【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 飛行船と飛行機を発明した アウグスト・セヴェーロとアルベルト・サントス=デュモン(飛行船の事故で死亡した政治家と、飛行機が戦争に使われることに悩んで自殺した航空エンジニア)
2025.08.25

AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。サントス・ドゥモン空港は、ブラジルにある空港です。リオ・デ・ジャネイロの港湾部にあり、リオ・デ・ジャネイロの中心地から2kmほど離れた位置に存在します。小規模の空港で、立地を拡大するのは難しいため、中型旅客機の国内線と、個人用の小型機のみが運行されています。このサントス・ドゥモン空港という名前は、ブラジルの発明家アルベルト・サントス=デュモンが由来です。彼はブラジル国内では「飛行機の父」と呼ばれています。デュモンは同郷であるアウグスト・セヴェーロが達成できなかった飛行機の安全性を改善したことで、ヨーロッパ人として初めての飛行に成功したことで知られています。今回はそんなアウグスト・セヴェーロとアルベルト・サントス=デュモンの生涯を振り返っていきましょう。
アウグスト・セヴェーロの生涯(政治家をしながら飛行船の開発に取り組むが失敗して死亡する)
アウグスト・セヴェーロは1864年、リオグランデ・ド・ノルテ州のマカイバで生まれました。リオデジャネイロの工科大学で工学を学び、卒業後は数学教師として勤務。その後、1892年まで貿易会社で働きました。
1887年、セヴェーロは最初の飛行船のアイデアに辿り着きましたが、この時点では製作することができませんでした。数年後、彼は政界に進出し、議員として活動しました。政治家になったセヴェーロには国からの援助が送られ、彼はその資金を使って温め続けていた飛行船を製作します。この飛行船は17世紀にブラジルで空中船のアイデアを生み出した発明家の名前をとり、「バルトロメウ・デ・グスマン号」と名付けられました。1984年、セヴェーロはバルトロメウ・デ・グスマン号の飛行テストを実施。飛行自体は安定していたものの、構造材として使用していた竹の強度が足りずに破損する結果となりました。セヴェーロは飛行船に関する特許を取得し、1901年の末から2機目の製作に取りかかりました。2機目の「Pax号」は順調に飛行試験を行いますが、1902年のテストで爆発事故が起こり、乗船していたセヴェーロはメーヌ通りに落下して死亡しました。
アルベルト・サントス=デュモンの生涯(ヨーロッパにおいて初の有人動力飛行に成功するが、飛行機が戦争に使われることに悩んで自殺する)
セヴェーロが生まれてから9年後の1873年、ブラジルのコーヒー農園を営む家庭のもとにアルベルト・サントス=デュモンが生まれました。コーヒー農園の経営は順調で、裕福に暮らしていましたが、デュモンが18歳のときに父アンリが他界したために農園は閉業し、デュモンはフランスに行くことになりました。
成人後、デュモンは航空機の開発に熱中しました。1901年に製作された飛行船6号機は、制限時間内にエッフェル塔の周りをまわる飛行コンテストでドゥーチ賞を獲得しました。デュモンの飛行船は、セヴェーロの飛行船事故の教訓を活かして、安全弁を用いてガス嚢の内圧が上昇しても爆発しないように対処することができていました。セヴェーロの飛行船事故は、この現象を予期できなかったために発生したものです。
1903年、アメリカのライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功しました。それから3年後、デュモンもエンテ型の動力機「14-bis」で公開実験を行い、短距離ながら飛行に成功しました。ヨーロッパにおいて初の飛行であり、また当時ライト兄弟の飛行は世界的には知られていなかったため、「人類初の飛行」として大々的に報じられました。デュモンは100m以上の飛行にかけられるアルシュデック賞を受賞して高額の賞金を受け取り、それを慈善活動に使用しました。また、彼は飛行の知識をパブリックドメインにするため、機体の特許を取得せず、飛行原理を記した設計図を公開しました。
1910年、デュモンは多発性硬化症を発病し、引退を決意しました。パリの郊外に家を買い、隠居して暮らすつもりでした。しかし第一次世界大戦が始まると、デュモンの飛行機や飛行船は軍用機として使用されるようになりました。デュモンはこの事実を知ると深く悲しみ、フランスを離れて祖国ブラジルに帰国しました。平和を信じて帰国したブラジルでは内戦が起こっており、飛行機は鎮圧に使用されていました。
デュモンは心を痛め、平和の実現のために飛行機を戦争に使用しないという署名を集めました。著名人をはじめ多くの署名が集まりましたが、ブラジル大統領や国会はこの署名を黙殺しました。自分がどれだけ苦心しても平和の実現に至らなかった現実に絶望し、デュモンは首を吊って自死を選びました。当局は彼の死を「心臓発作」と発表し、事実を隠蔽しようとしました。
今回は、ブラジルにおける飛行機開発の2人の英雄、アウグスト・セヴェーロとアルベルト・サントス=デュモンの生涯を振り返りました。セヴェーロは事故によって志なかばで命を落とし、デュモンも望まぬ形で自分の発明が使用されたことで自ら死を選びました。2人の最期は実に虚しいものでしたが、彼らが残した功績を忘れてはいけません。



