【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 複式簿記を発明した ルカ・パチョーリ(複式簿記の教科書『スムマ』を出版した「近代会計学の父」)
2024.10.11
AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。簿記は、会社の経済状況を把握するための技能のことをいいます。中でも複式簿記は、取引の内容を貸方と借方で区別して記録し、資金の流れを明確にするための方式です。複式簿記の起源は諸説ありますが、有力なのは13世紀末のイタリアで生まれたとされる説です。初めは貿易が栄えたことで簿記の仕組みが必要となり、次第に会社の経済活動を記録する体系が構築されていきました。1494年には複式簿記の教科書ともいえる書籍『スムマ』が出版され、多くの経営者を支えました。『スムマ』を著したのが、イタリアの数学者ルカ・パチョーリです。パチョーリは複式簿記の考え方を広めたことで知られ、その功績から「近代会計学の父」と讃えられています。今回はそんなルカ・パチョーリの生涯を振り返っていきましょう。
ルカ・パチョーリの前半生(商売に必要なので数学を学び、複式簿記の教科書『スムマ』を出版する)
ルカ・パチョーリは1445年、中部イタリア、現トスカーナ州アレッツォ県のサン・セポルクロで生まれました。ルネサンス時代のイタリアは芸術への興味・関心が高まり、経済的にも大きく発展した時代です。絵画や音楽など、創作活動にいそしむ人も増えていた中で、商人として活動する人も少なくありませんでした。パチョーリも経済について興味を持った1人で、若い頃から商売や会計のための数学などを学んでいました。
少年時代には画家のピエロ・デラ・フランチェスカから数学の指導を受け、19歳のときに故郷を離れてヴェネツィアで暮らし始めました。ヴェネツィアでは豪商アントニオ・デ・ロンピアージ家に仕え、3人の子息の家庭教師を務めました。パチョーリは受け持った3人の子息に数学を教えるため、算数書を執筆して生計を立てていました。ローマのレオン・バッティスタ・アルベルティとは親交を持ち、数学・神学を学びました。
1470年、数学の論稿を発表し、1472年にフランシスコ会の修道士、1475年にペルージャ大学の数学教師となります。1477年以降、ペルージャ大学やザダル、ナポリ大学、ローマ大学など数々の学校で数学の講義・執筆を行いました。1482年には博士の学位を習得し、1489年にサン・セポルクロに戻りました。
1494年、パチョーリは『スムマ』と呼ばれる数学書を出版しました。『スムマ』は算術百科事典としての内容を備えており、当時の数学知識を集めた最初の印刷本です。複式簿記を最初に体系化・理論化した出版物としても知られ、会計学で重要な位置を占めています。当時の学術書としては珍しく、ラテン語ではなくイタリア語で執筆されていました。『スムマ』は複式簿記の仕組みを開設した参考書であり、多くの人々に簿記の考え方を根付かせました。
『スムマ』の中で初めて複式簿記が学術的に説明されたことにより、パチョーリは「簿記会計の父」と呼ばれています。ただし、パチョーリ自身が「複式簿記の祖」というわけではなく、それは『スムマ』の中でも明確に断っています。
ルカ・パチョーリの後半生(レオナルド・ダ・ヴィンチに数学(純粋数学)と複式簿記(会計学)を教える)
1490年代後半にはミラノのスフォルツァ家をパトロンとし、潤沢な支援を受けられることになります。パチョーリはお金には不自由せず、数学者として勉強をしたり、教えを広げたりすることに注力することができました。1496年にはかのレオナルド・ダ・ヴィンチに数学(純粋数学)と複式簿記(会計学)を教え、彼の知識へのあくなき探究心に感銘を受けたとされています。
また、自身の研究も怠りませんでした。幾何学の立体図形に関する研究は、パチョーリとダ・ヴィンチが共同で行ったものです。1497年のマントヴァ滞在中には『神聖比例論』を著し、ダ・ヴィンチが描いたと思われる挿絵も挿入されました。
1500年、ピサ大学で幾何学の教員となり、以降はボローニャ大学やペルージャ大学、ローマ大学で教鞭を取りました。それから十数年あまりの時が経ち、パチョーリは故郷のサン・セポルクロで息を引き取りました。
今回は、複式簿記を世の中に広めるために重要な役割を担ったルカ・パチョーリの生涯を振り返りました。彼の著した『スムマ』は現代でも、重要な意味を持つ書籍だったとされています。簿記の知識は経営活動には欠かせず、家計管理にも使われています。世の中で使われている便利な仕組みも、それを考えた人が歴史の中には存在します。そんな歴史をたどってみると、また新しい発見に出会えそうな気がしますね。