【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 水素爆弾の発明家 エドワード・テラー(ローレンス・リバモア国立研究所の所長として活躍し、「水爆の父」として知られる天才研究者)
2024.06.14
AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。ローレンス・リバモア国立研究所は、核兵器の研究を目的として1952年にアメリカで設立されました。物理学、エネルギー、環境、バイオテクノロジーなどの研究を行っています。この研究所の設立を提案し、自ら所長を務めたのが「水爆の父」として知られるエドワード・テラーです。彼は核開発を推進する第一人者であり、水素爆弾の開発に大きく関わりました。今回はそんなエドワード・テラーの生涯を振り返っていきましょう。
エドワード・テラーの前半生(オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊してドイツに移住する)
エドワード・テラーは、1908年にオーストリア=ハンガリー帝国で生まれました。彼は幼少期から才気にあふれ、将来物理学の分野で活躍する片鱗を見せています。小学校に入る前から四則演算を理解していたとの逸話もあり、その才覚はすさまじいものでした。
テラーは少年期から、激動の歴史の波に振り回されることになります。1914年、セルビア人の青年がオーストリアの皇太子を銃撃する「サラエボ事件」が勃発。これをきっかけにオーストリアはセルビアに対して宣戦布告、事態は各国を巻き込む大抗争へと発展していきました。ドイツはロシアの動きを封じるために圧力をかけますが、ロシアがセルビア側についたことでドイツ対ロシアも開戦。イギリス・フランスもロシアとの三国協定を理由に参戦し、ヨーロッパ全土に戦争の火種が広がっていきました。
第一次世界大戦が終結した1919年、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、国内の貴族や資本家などは没落の一途を辿りました。テラー一家もこの影響を受け、貧困に窮することになります。ここからの数年間、ハンガリー国内では反ユダヤ主義と白色テロの動きが高まっていきました。ユダヤ系民族のテラー一家は身を守るため、1926年、テラーが18歳のときにハンガリーを離れ、ドイツへと移住しました。
ドイツでは高校に入り、化学や数学を学びました。ブダペストにいる間、短い期間ながら化学工学を学んでいたため、その続きとしてドイツでも学習を続けていったのです。1930年、テラーはライプツィヒ大学のヴェルナー・ハイゼンベルクに師事し、物理学の博士号を取得。その後はゲッティンゲン大学で助教授として2年を過ごしました。
1933年、ナチ党を率いるアドルフ・ヒトラーがドイツ政権を握ります。ヒトラーは苛烈な反ユダヤ主義思想を掲げており、ユダヤ人に対して徹底的な弾圧を行いました。テラーはこの支配から逃れるため、ユダヤ人救出委員会の手を借りドイツを離れました。一時期はイングランドで過ごし、その後コペンハーゲンに1年ほど滞在。1935年にはアメリカに移住し、各国を転々としている間に結婚もしました。
エドワード・テラーの前半生(ナチス・ドイツに追われてアメリカに移住して水素爆弾の開発に成功する)
テラーが世界中を渡り歩いている間、世界恐慌の影響でドイツ資本主義は崩壊しました。このときに見た景色が、テラーに社会主義や共産主義の思想を支持させました。しかしアメリカに滞在中、友人のレフ・ランダウがソ連政府に逮捕されたことで、ソ連に対する反感を強めていきました。友人はスターリンによる理不尽な裁判により罰せられ、以降は社会主義・共産主義に並々ならぬ嫌悪感を抱くようになっていったのです。
第二次世界大戦が始まると、アメリカは核開発に大きく乗り出しました。ドイツでは原子爆弾の開発が着々と勧められており、状況に焦ったアメリカ・カナダ・イギリスはマンハッタン計画を推し進め、テラーも研究者の一人として計画に参加しました。
1945年、ロバート・オッペンハイマーの尽力で、原子爆弾が完成しました。ニューメキシコで行われたトリニティ実験にテラーも参加し、その威力を目の当たりにします。開発当初、テラーは原爆の実戦使用には賛成していたものの、壊滅的な被害の発生を抑えるために東京湾上空への威嚇投下にとどめることを提案していました。しかし動き出した歯車は止まらず、原爆は広島・長崎と二度に渡って実践投下されます。歴史に大きな爪痕を残した核兵器は、世界が平和について考えるきっかけともなりました。
終戦後はアメリカとソ連の対立が続き、大国が睨み合う冷戦状態へと発展していきます。第二次世界大戦の終戦時点ではアメリカが原子爆弾の製造技術を独占していましたが、1949年にはソ連も核開発に成功。これに対抗するため、アメリカは原爆の数十倍〜数百倍の威力を持つ水素爆弾の開発を進めていきました。1952年、テラーの活躍によってアメリカはエニウェトク環礁での実験に成功します。テラーは研究に大きく貢献した功績から「水爆の父」と呼ばれ讃えられました。
しかし、この時点で原爆の発明に関わった研究家たちの間では「核兵器開発を進めるべきではない」という価値観が広がっていました。原爆を発明したオッペンハイマーもこれを提唱しているうちの一人であり、より強力な兵器を作ることに心血を注いだテラーとは対立していきます。この対立はだんだんと根深いものとなっていき、テラーは1954年に行われた身上調査の審問でオッペンハイマーを非難しました。するとオッペンハイマーはアメリカ国内においてソ連のスパイであるとの嫌疑がかけられ、公職を追放されることに。オッペンハイマーを慕う科学者たちもこの一件でテラーに対して非難し始め、テラーはついに科学者たちから相手にされなくなってしまいます。やがてテラーは自分を持ち上げてくれる政治家や軍人のみと付き合うようになりました。
核開発の動きは世界各国へと波及し、アメリカ・ソ連に続いてイギリスやフランス、中国などでも核実験が進められました。このような情勢の中、1962年に核兵器使用に関する抑止力として「相互確証破壊(MAD)」という概念が生まれました。これは先制核攻撃をされた場合に備えて、相手国に対して確実に報復核攻撃を行えるようにすることです。核を保有していることが逆にリスクとなり、冷戦中にアメリカとソ連が直接的にぶつかることはありませんでした。
1958年、テラーはローレンスリバモア国立研究所の所長に就任。その後はカリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとりました。1975年に引退すると、リバモア研究所の名誉所長に指名され、フーバー研究所のシニア研究員にも任命されました。引退後も核兵器の開発を続け、1983年にはアメリカ国家科学賞を授受されました。水爆の発明に関しては否定的な目線も少なくありませんでしたが、テラー本人は相互確証破壊のきっかけを作り、核戦争を未然に防いだと生涯主張し続けました。2003年、テラーはカリフォルニア州スタンフォードで最期を迎えました。
今回は、水爆の開発に大きく関与したエドワード・テラーの生涯を振り返りました。原爆の開発者でありながら平和主義を掲げたロバート・オッペンハイマーとは対照的な人生であり、批判の目に晒されることもありました。テラー本人の言う通り、核保有自体が抑止力となり核戦争が勃発しなかったことは事実です。とはいえ、冷戦時にアメリカとソ連が軍事衝突しなかったことは、あくまで状況とさまざまな要因が絡み合ったうえでの奇跡だといえるでしょう。核兵器廃絶の未来を迎えるためには、平和について考える姿勢を持つことが大切です。