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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 「ライス式電話」の発明家 ヨハン・フィリップ・ライス(世界初の電話機を発明したが実用化されずに終わった可哀想な発明家)

2024.04.12

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。電話は、グラハム・ベルによって作られた発明品です。音声通話を実現していたのは、初めは伝声管や糸電話などでした。電信技術の発達により電気信号を活用した電話機が開発され、より長い距離間での音声通話が可能となりました。電話の歴史でよく知られている人物といえば、アントニオ・メウッチ、イライシャ・グレイ、アレクサンダー・グラハム・ベル、トーマス・エジソンなどが挙げられます。しかし、彼らが最初に電話を発明した人物としてのポジションを争う以前から電話の基礎を作り上げた人物が存在します。それが、ドイツの技術者だったヨハン・フィリップ・ライスです。ライスは「ライス式電話」という電話機を発明して、電話発明のパイオニアとして名を馳せました。今回はそんなヨハン・フィリップ・ライスの生涯を振り返っていきましょう。

 

ヨハン・フィリップ・ライスの前半生(貧しいながらも大学に通って教師になる)

ヨハン・フィリップ・ライスは、1834年に生まれました。ゲルンハウゼンのパン職人を営む家庭で生まれ育ちました。ライスは6歳のときに、地元の公立学校に通い始めました。ライスは豊かな才能があり、すぐに教師からの注目を浴びました。ライスの父親は教師から高等学校に通って教育を受けた方がよいとの助言を受けましたが、ライスが10歳のときに死別しました。祖母と後見人はライスをフリードリヒスドルフにあるガルニエ大学に送りました。ライスは大学で言語学に深い興味を示しました。英語とフランス語を習得し、図書館に通って数多くの本を読み、豊富な知識を獲得しました。

14歳の終わり頃、ライスはフランクフルト・アム・マインのハッセル大学に受け入れられました。そこではラテン語とイタリア語を習得しました。ライスはまた、科学に対して情熱を注ぎ、ライスの保護者はカールスルーエ工科大学に通わせようと考えました。しかしライスの叔父は商人になることを願っていました。叔父はライスの意思に反して、フランクフルトの塗料商人のもとに弟子入りさせましたが、ライス本人は学業を優先しつつビジネスも学びました。

1855年、ライスはカッセルで兵役を終え、フランクフルトに戻りました。その後は自習と公開講座を行い、数学と化学の教師として資格を取得しました。ライス自身はハイデルベルク大学での訓練を修了するつもりでしたが、1858年にガルニエ大学での職を提案した古い友人であり師でもある人物のもとを訪ね、修行を続けました。

1859年、ライスは仕立て職人の娘マルガレッタ・シュミットと結婚し、フリードリヒスドルフに引っ越してすぐにフランス語、物理学、数学、化学の教師としての新しいキャリアを歩み始めました。家も購入し、空いた時間で電気工学と機械工学の勉強をする生活を送りました。研究の成果は実り、ローラースケートや手動で制御する三輪車、自動車の初期型を開発したことでも知られています。

 

ヨハン・フィリップ・ライスの後半生(ライス式電話を発明するが実用化されずに終わる)

ライスは、1860年に電話のプロトタイプを発明しました。電気を使って音声を伝える機構を思いつき、いくつかの実験を行いました。ライスの考えでは、電気は光と同じように物質導体を必要とせず、空気中を移動するものでした。ライスの研究結果は、「電気の輻射について」に記載され、さらに当時有名だったアナーレン・デア・フィジーク誌に掲載してもらうため、物理学者のヨハン ・ クリスチャン・ポッゲンドルフ教授に郵送されました。しかしポッゲンドルフは、電気で音声通話を行うことが現実的でないことだと考え、原稿を却下しました。

その後、ライス式電話は二度にわたって評価を見直されるチャンスを獲得します。一度目は1861年、フランクフルトの物理学会です。初めて公にプロトタイプを公開し、プレゼンテーションを行いました。王立プロイセン電信兵団、第八インスペクター長ヴィルヘルム・フォン・レガートの注目を買い、科学雑誌にも掲載されましたが、雑誌自体の知名度が少なかったため話題にはなりませんでした。2年後、フランクフルトのゲーテハウスでのオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を前にしたデモンストレーションでライス式電話から音楽を流しました。このイベントのおかげでライス式電話は再び評価され、人気を獲得したかに思われましたが、通信の不安定さが原因で販売は失敗に終わりました。

ライスは電話の発売によって、世界的な知名度を獲得しました。しかしライス式電話には改善点が多く、名声が大きくなった分だけ失望する場面も増えてしまいました。フランクフルトの自由ドイツ研究所はライスを名誉会員に選出していましたが、ライス式電話に関しては「哲学的なおもちゃ」として評価し、実用的な発明品としては認めていませんでした。1867年、ライスはこの研究所を辞任しました。しかしライス自身はこの電話をいずれ世界的に普及する発明だと確信していました。1854年、ポッゲンドルフから「アナーレン・デア・フィジーク」にライス式電話を掲載するための資料と装置を送って欲しいと打診があり、今度こそ大きな成功を掴むと思われましたが、ライスは結核に冒され、結果的に成功を掴むことはありませんでした。

ライスは病魔に冒されながらも、電話の改良に取り組みました。しかし闘病生活は厳しく、徐々に体力を失っていきました。1873年には痛みを伴う病気を併発し、寝たきりの状態にまで悪化してしまいます。ライスは40歳の若さでこの世を去りました。

今回は、電話を発明した初期の人物として知られるヨハン・フィリップ・ライスの生涯を振り返りました。電話を発明した人物はさまざまな説がありますが、一般的にはグラハム・ベルがそうだと言われています。しかし、もしライスが結核を患っていなかったら、歴史は変わっていたかもしれません。電話の発明の裏には、意外なドラマがありました。このような背景を知ることで、電話に対する見え方、考え方も違ったものになるかもしれませんね。

 

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