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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー ニュートン式望遠鏡の発明家 アイザック・ニュートン(「万有引力の発見」「微積分学の発見」「分光現象の発見」の三大業績を誇るイギリスの天才物理学者)

2023.04.10

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。ものを作るためには、エネルギーや力の方向など、物理法則を理解する必要があります。中でも重力・万有引力の発見は、人類にとって大きな発見となりました。この万有引力を発見したのは、イングランドの物理学者であるアイザック・ニュートンです。木から落ちるリンゴを見て重力を発見したというエピソードを聞いたことがある人も多いでしょう。彼は重力だけでなく、運動の法則や微積分学、光の分光現象など科学の発展に大きな功績を残しました。ニュートンがあらゆる物理法則を発見したからこそ、今日の科学技術の発展があるのではないでしょうか。今回はそんな、アイザック・ニュートンの生涯を振り返っていきます。

アイザック・ニュートンの生涯(誕生〜ケンブリッジ大学入学まで)

ニュートンは、1642年(ユリウス暦)の12月25日、つまりクリスマスの日に誕生しました。ニュートンの誕生について、「ニュートンはガリレオ・ガリレイが死んだその日に生まれた」「ニュートンはガリレオの生まれ変わり」と言われることがありますが、これは間違いです。ガリレオが死んだ日の暦法(グレゴリオ暦)とニュートンが生まれた日の暦法(ユリウス暦)が違うためにこのような勘違いが生まれました。ニュートンが生まれたのは、イングランドの寒村であるウールスソープ=バイ=カールスターワースの祖父宅です。未熟児で生まれたニュートンを見て、産婆は「この子は長生きすまい」と言ったそうです。ニュートンは、幼少期を祖母の家で過ごしました。その背景にあったのは、母親の再婚です。ニュートンの父親はニュートンが生まれる前に他界していたため、母親は子供の養育費を得る必要がありました。母親は近隣の牧師の家に嫁ぎ、ニュートンを祖母の家に託したのです。幼いニュートンは母親の選択に反発し、「放火して家ごと焼き殺す」と過激な発言をしたこともあるようです。のちに母親の真意を知ったニュートンはこの時の発言を反省し、後年は母親と付かず離れずの距離を保ちながら、年老いた母親の面倒を見ました。

ニュートンを育てていた親類は、ニュートンの才覚を実感していました。ニュートンは親類の導きで1655年にグランサムのグラマースクールに入学することになります。学校はニュートンの自宅から遠く離れたところにあったため、在学中は母親の知り合いである、薬剤師のクラーク家に下宿して過ごしました。クラーク家の養女ストーリーとは親友になり、のちに婚約することになります。薬草を集めたり、水車や日時計、水時計などを作ったりして過ごしていましたが、2年が経った頃にニュートンは自宅に戻りました。母親が再婚相手の死をきっかけにウールスソープに戻ったためです。母親は実家で農業を行い、ニュートンにも手伝ってほしいと考えていましたが、ニュートンは自宅に戻ってもろくに農作業を手伝いませんでした。母親はニュートンの様子を親類や友人に相談し、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学ばせることを決めました。2年後、ニュートンはトリニティ・カレッジへ入学し、聖書、算術、ラテン語、古代史、初等幾何などを学びました。ニュートンの幅広い勉学の才能はここで培われたのです。

アイザック・ニュートンの生涯(三大業績)

ニュートンは数々の功績を残したことで有名ですが、中でも「万有引力の発見」「微積分学の発見」「分光現象の発見」は特にこの世に大きな影響を与えた3つの発見として知られています。

ニュートンがこの3つの発見をするに至ったのは、一人でじっくり考える時間を得たことです。ニュートンがトリニティ・カレッジで学位を取得したころ、ロンドンでは伝染病であるペストが大流行していました。ペストはヨーロッパの3分の1以上の人口を死亡させた病気であり、ケンブリッジ大学は感染対策のために閉鎖していたのです。ニュートンは自宅に帰り、ゆっくりと思索にふける時間を得ました。ニュートンはペストの流行前に奨学生の試験に合格していたため、奨学金を得ていました。金銭的な負担もなく、雑事に追われることもなくなったため、一人でじっくりと考えることができたのです。この3つの発見は、すべてわずか1年半あまりの間に行われました。そのためこの期間のことは「驚異の諸年」「創造的休暇」と呼ばれることもあります。なお万有引力の発見はニュートンが重力を発見したと誤解されがちですが、重力自体はガリレオの時代からすでに発見されているものでした。ニュートンは「月にはなぜ物が落ちないのか」と考え、重力を数式で表したことが大きな功績です。

ペストの収束後、ニュートンはケンブリッジ大学に戻りました。ニュートンが復学した年、大学のフェローに空きが出たため、ニュートンはそのポストに就くことができました。その2年後、ニュートンはルーカス教授職に就きました。幾何学や算術、天文学など多岐にわたる学問を教えていましたが、毎学期わずか10回ほどの講義と週2回の学生との会合に出席するだけで良いとの条件で仕事をしていたそうです。ニュートン自身が発明した「光学」についても授業を行っていましたが、当時の学生にとっては理解が難しい内容であったため、講義の出席者がいないことも多々ありました。この頃、ニュートンは、ニュートン式望遠鏡を考案し1668年には第一号機を完成しています。

ニュートンは大学を離れた後も、下院議員や王立造幣局、個人投資家など多くの分野で活躍しました。頭脳明晰なニュートンは結果を出しながらも、株式投資の失敗で大きな痛手を負うこともあったようです。1705年、ニュートンはアン女王からナイトの称号を授受しました。自然科学の業績でナイトに叙勲されたのは、ニュートンが初でした。ニュートンの学び舎であったトリニティ・カレッジで授与式が行われ、ニュートンは後世に残る栄誉を手にしたのです。ナイトの叙勲から20年後、ニュートンはこの世を去りました。ニュートンの遺体はウェストミンスター寺院に埋葬され、ニュートンの自宅はウェストミンスター公立図書館となりました。

今回は、重力の発見で有名なアイザック・ニュートンの生涯を振り返ってきました。物理や数学の基礎を発見した功績は大きく、現在のあらゆる学問の土台となっています。ニュートンの功績は人々に多大な影響を与え、今日まで名を残す偉人となりました。私たちが普段使っている道具や家、乗り物などにニュートンの物理法則が応用されています。勉強が苦手な人でも、学問がどのように使われているのかを知るのは面白いのではないでしょうか。

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