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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 蒸気機関車の発明家 マシュー・マレー(初めて実用化に成功した蒸気機関車「サラマンカ号」を設計し、ライバル企業の嫌がらせにもめげずビジネス的にも成功した優秀な発明家)

2023.07.31

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。蒸気機関の発明は、人類の発明の歴史に大きな影響を与えました。実用化されるまでに多くの試行錯誤がなされ、実際に人々が利用できるようになるまでには長い時間がかかりました。蒸気機関を利用した代表的なアイテムが、蒸気機関車です。元々は鉱山の排水に使われていた蒸気機関ですが、そのエネルギーを利用すれば輸送にも転用できることに気づき、数多くの発明家が実用化にチャレンジしていきました。初めて実用化に成功した蒸気機関車「サラマンカ号」を設計した人物が、イギリスの発明家であるマシュー・マレーです。彼は蒸気機関だけでなく工作機械や紡績機械にも造詣が深く、数多くの分野で活躍した人物です。今回はこのマシュー・マレーの生涯を振り返っていきましょう。

このマシュー・マレーの前半生(鍛冶屋から機械工になり紡績機を発明する)

このマシュー・マレーは、1765年、ニューカッスルのアポン・タインで生まれました。14歳で学校を卒業すると、地元の鍛冶屋職人に弟子入りして技術を学び始めます。およそ5年の間、鍛冶の修行を積み、独り立ちしたのは1785年のこと。独立してすぐ、結婚することになります。二人は結婚の翌年、ストックトンに移住しダーリントンの工場で機械工として働き始めました。この工場は亜麻紡績を行う技術が発明された場所であり、亜麻の紡績を行うための工場でした。働きながら、マシューと妻は娘を3人、息子を1人もうけ、息子には自分と同じ「マシュー」という名前をつけました。

ダーリントンで一旦は生活が安定したものの、仕事が多いわけではありませんでした。子どもが4人もいる家族を養うために、マレーは1789年にリーズへと移りました。リーズには高明な亜麻の織物生産業者であったジョン・マーシャルがいると聞き、彼のもとで働くために移住を決意しました。マーシャルはマレーを歓迎し、工場では主任技術者のポストを与えました。さらに、新しく工場を設置することになった時には、マレーに工事責任者の役も与えていました。新工場の中にはマレーが独自の設計で開発した亜麻紡績機もあり、マレーは1790年に特許を取得します。1793年には2番目の特許を取得し、技術者としての地位も上げていきました。マレーの特許の中には梳綿のための機械や亜麻の潤紡という新しい技術を導入した紡績機などがあり、これは亜麻の流通に革命をもたらしました。

フェントン・マレー・アンド・ウッド社を設立

マレーが特許を取得し始めた頃、リーズの産業は急激な発展を遂げました。技術者や機械工は所属していた工場を離れ、独立して会社を立ち上げる動きが盛んになっていました。マレーはこの頃、デービッド・ウッドと協力しホルベックのミル・グリーンに工場を設立しました。周辺にはいくつか工場があり、マレーの会社は機械類を供給するターミナルとしての役割も果たしました。業績としては大きな成功を収めたといえます。1797年にウォーター・レーンにある施設に移転すると、各所の有名な技術者を集め、さらに規模を大きくしていきました。

このマシュー・マレーの後半生(蒸気機関の発明をしてライバル企業の嫌がらせにもめげずビジネス的にも成功する)

マレーは会社を設立して、事業を成功させていきました。しかし同時期、蒸気機関の設計を改良することにも興味を抱いていました。当時の設計は量産するには設計が複雑であり、使用するにも場所の制限があったのです。組み立て時の精度も低く、多くの問題が指摘されていました。マレーはより簡潔で軽量化し、コンパクトに扱える設計にしたいと考えていました。マレーはまず、内側回転式の歯車を導入して特許を問題をクリアしました。しかし、のちにピッカードの特許が切れたために、この方式を使わずに済むようになります。

1799年、ボールトン・アンド・ワット社のウィリアム・マードックが、D型スライドバルブという新型の蒸気弁を発明しました。これに対抗するように、マレーも革命的な発明をしていきます。ボイラーの蒸気圧に応じて自動的に火室の上昇気流を調整するための装置や燃料を供給するシステムなどの特許を取得しました。この時にマレーが発明した、蒸気機関でピストンを水平方向に設置する設計は初めての試みでした。結果的にこの設計は非常にうまくいき、精度の高い機械を量産することに成功します。スライドバルブの表面を滑らかに削り取るための特別な平削り盤を設計したのもこの時ですが、平削り盤は門外不出の発明であり、特別な部屋に保管され、一部の従業員のみがこれを使用できたとされています。

マレーが製造する蒸気機関は、かなりの精度の高さを誇っていました。各所で評判を集め、需要もだんだんと高まっていきました。様々な場所で求められるようになったため、新しく工場を作り上げる必要が出てきました。マレーは工場を自身で設計し、巨大な三重塔のような構造のものを建設しました。

事業としては大きく成功していましたが、競合であるボールトン・アンド・ワット社との対立も激しくなっていきました。ボールトン・アンド・ワット社は儀礼訪問の名目で社員を二人送りましたが、内実はスパイとして内部の情報を見るためでした。マレーは純粋な性格をしていたため、ライバル会社の人間だろうと構わずすべてを見学させてしまいます。マレーの会社の技術はボールトン・アンド・ワット社よりもかなり高度なレベルにありましたが、これをきっかけにマレー・アンド・ウッド社の情報が流出することになります。最終的に、ワットはマレーの会社の工場の隣接地を購入し、それ以上工場を拡張できないようにしてしまったのです。

さらに、特許の取得についてもボールトン・アンド・ワット社の動きにより、マレーの会社は不自由な動きを余儀なくされました。マレーは1つの特許につき、多くの改良事項を盛り込んでいました。当時のイギリスの特許制度では、これにより、そのうちの一つでも先行例が発見されれば特許は無効になってしまう、という状況に陥ってしまうリスクがありました。こうした動きにもかかわらず、マレーの会社はその製品の質によって多くのファンを産み出し、一大企業として躍進していきました。

マレーの生涯でもっとも大きな成功といえば、初の実用化に成功した蒸気機関車の設計です。リーズ郊外のミドルトンで炭鉱マネージャーをしていたジョン・ブレンキンソップのところにサラマンカ号を納入しました。結果的にサラマンカ号は成功を収め、その後の蒸気機関車のモデルケースとなりました。

その後もマレーは数々の発明を行い、産業分野の成長を促進させていきました。1826年、60歳の時に永眠。マレーの会社は1843年まで存続し、偉大な歴史人の軌跡として残されました。マレーの蒸気機関は80年にも渡って利用され続けたことは、優れた設計を行ったことの証左に他なりません。息子はラウンド・ファンドりーで見習いとして働いた後、ロシアのモスクワで技術の会社を立ち上げています。

今回は初の蒸気機関車の実用化を成功させたマシュー・マレーの生涯を振り返りました。彼が残した数々の発明はいずれも精度が高く、多くの人々に愛されるものでした。事業拡大の途中には競合会社との小競り合いもありましたが、品質のよいサービスを提供し続けたことが会社を存続させる大きな要因となったといえます。多くの発明を残した偉大な発明家に感謝して、日々生活を送っていきたいですね。

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