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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー 蒸気機関の発明家 トーマス・セイヴァリ(安全性の問題で大成功を収めることができなかった発明家)

2023.06.09

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。中でも人類の文化を大きく発展させるきっかけになったのが、蒸気機関の発明です。産業革命の時代、様々な発明がもたらされました。最初の蒸気機関を発明したのは、トーマス・セイヴァリです。彼は商業的に利用される最初の蒸気機関を発明した功績で、現代にも名を残しています。今回はそんなトーマス・セイヴァリの生涯を振り返っていきましょう。

トーマス・セイヴァリの前半生(最初の蒸気機関である「火の機関」を発明する)

トーマス・セイヴァリが生まれたのは、1650年ごろのこと。イングランド南西部のシルストンという街で生まれました。セイヴァリは軍事技術者として研鑽を積み、当時のイギリス軍隊の「トレンチマスター」と呼ばれるようになります。セイヴァリは初め、「キャプテン・セイヴァリ」と呼ばれていました。諸説ありますが、「キャプテン」という呼称は海軍大佐を指しているという説、当時のコーンウォールの鉱夫の間で呼ばれていた説などがあります。セイヴァリが活躍した時代では、技術者の役割はあまり重要視されていませんでした。しかしセイヴァリは、機械へのほとばしる興味を抑えられず、物理的な知識を身に付けました。仕事以外の時間にも機械への情熱を忘れず、様々な機械の実験を行っていたそうです。

1966年、セイヴァリは板ガラスや大理石などを磨く機械の特許を取得しました。同時期、船舶推進法に関する論文を発表したことでも知られています。同論文にはキャプスタン(磁気テープを一定速度で駆動するための機構)で回す概論も含まれており、イギリス海軍にこの技術を取り入れることを提案しました。結局採用には至りませんでしたが、機械の軍用への姿勢はかなり前のめりだったことが窺い知れます。

セイヴァリが達成したもっとも大きな発明は、最初の蒸気機関である「火の機関」です。彼自身、鉱山地帯の近郊で育ったことから、鉱山で排水が大きな課題となっていたことを知っていました。鉱夫らは危険を抱えたまま作業をしていたことに思うところがあり、蒸気の力を使って問題を解決する仕組みを考えました。たくさんの実験と設計の末、できたのが「火の機関」です。1698年にはハンプトン・コート宮殿で当時の国王であるウィリアム3世を前に蒸気機関の操作を実演し、同年には特許を認められることになります。翌年には王立協会でも実演し、こちらでも上々の人気を博しました。1702年に解説書『鉱夫の友;または火で揚水する機械』を出版し、王に献本。中に記した機関の構造や操作方法は、以降のイギリス産業革命に大きな影響を与えました。セイヴァリの特許は14年間の期限が設けられていましたが、取得の翌年には21年の延長が認められ、1733年まで有効となりました。1712年にトマス・ニューコメンが進化した蒸気機関を開発しましたが、セイヴァリの特許を使用しなければなりませんでした。ニューコメン機関は、レシーバーという容器の中の水を直接蒸気で押し出し、容器内を真空にして新たな水を吸い上げる動作を繰り返して水を引くというシステムです。この装置自体は原理や技術が未発達だったため、生産しても損失が大きくなってしまうことに加え、当時の技術では高圧に耐えられないという危険性も持ち合わせていました。さらに、鉱山で使用するには坑道の深い位置に設置しなければならず、故障時や事故時には水没してしまうという問題もありました。

セイヴァリ機関は、コーンウォール州の鉱山地帯で数台建造されました。最初のものはヘルストンから数キロ離れたブレッジの鉱山で建造されたもので、導入当初は順調に排水を行っていましたが、坑道が深くなるにつれて蒸気圧を高くする必要が生まれたことから破裂事故が多発するようになり、やがてニューコメン機関が一般的になりました。1705年にはブロードウォーターの炭鉱でも、セイヴァリ機関が設置されました。ここでの問題は急な出水に見舞われて水没していたこと。これに対してセイヴァリは手を尽くしてあらゆる手段を講じましたが、そのいずれもうまくいきませんでした。排水力を増すために蒸気の圧力を高くすると大爆発を起こし、セイヴァリは撤退せざるを得ませんでした。

これらのような失敗から、セイヴァリ機関は噴水への水供給、紳士の邸宅への給水、上掛け水車を動かすための用水などの用途に限定されました。セイヴァリ機関を改良するための試みはいくつもなされましたが、ニューコメン機関の登場まで根本的な改良はなされませんでした。

トーマス・セイヴァリの後半生(王立協会のフェローに選出される)

その後のセイヴァリの人生について、残されている記録は多くありません。1702年にスペイン王位継承戦争時に海軍省に傷病者委員会が設置されていましたが、1705年にその収入役が逝去すると、セイヴァリはその後任の職を得たとされています。この同年、セイヴァリは王立協会のフェローに選出されました。このころになるとセイヴァリは自身の機関を鉱山に設置することを諦め、ダートマスで別の蒸気機関の開発を行っていたとされています。この時期にニューコメンに会い、セイヴァリの特許のもとで開発を行うように同意を得たという記録が残されています。

スペイン王位継承戦争が終わり、1713年セイヴァリは委員会を解任され、2年後の1715年に死去しました。セイヴァリの死後、特許権はジョイント・ストック・カンパニーが引き継ぎました。

今回は人類の最初の蒸気機関を発明したトーマス・セイヴァリの生涯を振り返りました。偉大な発明をした反面、現場で使用するには原理と技術が未熟だったために問題が絶えない発明となってしまいました。しかし、セイヴァリの発明がなければ、人類の進化はもっとおくれていたかもしれません。最初の発明をしたのに大成功を収めたわけではないことは残念ですが、人類の科学が成長するきっかけを作った人物に敬意を表したいものですね。

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