ブログ

【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー 鋳鉄技術の発明家 ジョン・ウィルキンソン(鋳鉄事業に成功して大富豪になり「鉄きちがい(iron madness)」と呼ばれた幸せな天才発明家)

2023.04.28

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。自動車の部品や、フライパン、ドアノブなどの家庭用製品など、あらゆるものに鉄材の鋳造技術が使用されています。この鋳鉄技術を世界に広めたのが、イギリスの鉄鋼業者であったジョン・ウィルキンソンです。彼が生み出した鋳造技術は、それまでの鍛造よりもはるかに効率的でした。鉄工業に革命をもたらし、その功績は現代でも高い評価を得ています。

今回はそんな、ジョン・ウィルキンソンの生涯を振り返っていきましょう。

ジョン・ウィルキンソンの前半生(画期的な鋳鉄技術の発明)

ジョン・ウィルキンソンが生を受けたのは、1728年のこと。カンブリアのブリッジフットで、鋳物技術者であった父親のもとに生を受けました。木材ではなく石炭を使う業者であり、鉄溶鉱炉を使用していました。家族はノンコンフォーミスト(非国教徒)であり、信仰や思想の自由などを掲げていたとされています。当時のイギリス国教会は国王の力を強めるために作られた教会制度であったため、多くの国民は教徒となって信仰を捧げていました。このような状況の中、ノンコンフォーミストへの風当たりは強く、一般の職業や学会から拒否されることも少なくありませんでした。そのため、ノンコンフォーミストの多くは科学者や技術者、商人などになることが一般的だったようです。ウィルキンソン一家も例に漏れず、鋳物を扱う職人として活躍していました。

ウィルキンソンはそんな父親のもとで暮らし、鉄鋼の技術を磨いていきました。17歳になった1745年、ウィルキンソンはリバプールの商人のもとで見習いとして働きます。この修行は22歳となる1850年まで続きました。その後は実家に戻り、父親の仕事を手伝うようになります。

1753年、ウィルキンソンの父親は家を離れ、ウェールズのレクサムの近くに移住します。ベルシャム製鉄所という工場で働くためです。2年後、ウィルキンソン自身もベルシャム製鉄所に加わり、1757年にはウェスト・ミッドランズのシュロップシャー付近に自身の高炉を建て、鉄工所の規模を拡大していきました。さらに高炉をもう一つと工場を建て、経営は飛ぶ鳥を落とす勢いで盛り上がっていきました。これらの経営手腕から高い評判を獲得したウィルキンソンは、1761年にベルシャム製鉄所の所長として経営を行うようになります。ベルシャム製鉄所の最盛期には、製鉄所の他にレンガ工場や製陶所、ガラス工場、圧延工場などの経営も行いました。工場の近くにはバーミンガム運河が作られ、河川での運送業ととおもにウィルキンソンは莫大な資産を築き上げました。

ジョン・ウィルキンソンの後半生(様々な事業に成功して大富豪になる)

17世紀後半のイギリスは、オランダとの戦争が繰り返し行われていました。そのため、軍事産業の需要が高く、鉄鋼への注目も自然と集まっていたのです。そんな中、鉄鋼業で名を上げていたウィルキンソンに対してもイギリス軍の関心は高くなっていました。特にウィルキンソンの工場は高い精度の鋳物を作ることや武器、砲台を作ることで知られ、やがて軍事的にこれらの兵器が利用されるようになります。それまでの大砲は中心に中子を入れて鋳造し、その後に中ぐり盤で内径を仕上げるという作り方をしていましたが、精度面では十分とは言えませんでした。そこで白羽の矢がたったのが、ウィルキンソンの作る大砲です、彼は直接ガンドリルで穴を開け、その後に中ぐり版で仕上げ行う方法を取っていたため、従来よりも精度の高い大砲を作ることに成功していたのです。これにより、発射時に砲身が破裂する事故を大幅に減少させました。大砲に関する特許は海軍の反対にあったため取得できませんでしたが、ウィルキンソンは大砲産業の主要メーカーとなりました。

また、ウィルキンソンは鋳鉄技術の他に、蒸気機関を実用化させた実績でも知られています。それまでの蒸気機関は、理論上は大きなエネルギーを生み出す方法として注目されていましたが、それを実用に転じることは大きな課題でした。最初に発明された蒸気機関を改良したジェームズ・ワットも、最初の数年間は蒸気機関の実用化に苦心していました。シリンダーの内径を叩いて修正するなどの実験を行いましたが、ついに実用化にはいたりませんでした。そんな中、ウィルキンソンが行ったのは、切削によって変形する刃物軸を、両端から固定する中ぐり盤の開発でした。片持ちの機械を使えばこのような対応が可能になり、蒸気機関の実用化に成功したのです。この技術は蒸気機関車やポンプなどに使用され、ウィルキンソン自身もその加工法を世間に広めることに尽力しました。鉱山からの排水にしか使用されていなかった蒸気機関を、あらゆる産業で使用されるようにしたのはウィルキンソンの大きな功績と言えるでしょう。

ウィルキンソンの活躍の証は、イギリスのユネスコ世界遺産に登録されているアイアンブリッジに残されています。アイアンブリッジとは、セヴァーン川にかかる全長60mの大橋です。ウィルキンソンは、友人であるトーマス・プリチャードの提案を受け、議会を説得するなどの協力を行い、橋の建設に関わりました。1779年に竣工されたアイアンブリッジは1781年に開通し、地区の名所となりました。

ウィルキンソンの事業は鉄製品に止まらず、銅製品にも手を広げていました。1761年にイギリス軍における銅の需要が急増したため、ウィルキンソンの事業は短期間で大きな利益を上げました。そこから鉄鉱山の買収、鉛管の製造工場の設立など、ますます事業を拡大していきます。ウィルキンソンが65歳になるまでの間に、イギリスにおける鋳鉄製品の約1/8はウィルキンソンの企業が生産したとまで言われています。

ウィルキンソンは、経営者としての手腕もさながら、社員への人柄もよく、新入社員には家族と一緒に住める住宅を提供し、地域の教会への寄附を行うなど人格者だったとされています。義理の弟であるプリーストリーには、研究のための支援を惜しまなかったという話もあります。1790年代、彼の評判は多くの場所に広まり、「鉄きちがい(iron madness)」と揶揄されるほど鉄鋼に打ち込んだ人生でした。1808年にその偉大な人生は幕を閉じ、彼の棺や墓は生前の相棒である鉄で作られました。

今回は、鉄工業に革命をもたらしたジョン・ウィルキンソンの生涯を振り返ってきました。鉄産業は現代でも需要の大きな産業であり、彼の活躍によってその礎が築かれたことはいうまでもありません。技術者として鉄に対してひたすら向き合ってきたその努力を考えると、尊敬の念を禁じえないでしょう。鉄は私たちの生活に欠かせない素材です。それがどのように使われるようになり、効率よく生産されるようになったのかを辿ってみると、新たな世界の扉が開けるかもしれません。

アーカイブ