ブログ

【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー アームストロング砲の発明家 ウィリアム・アームストロング(弁護士でもありビジネスでも大成功して男爵にもなったW.G.アームストロング社+エルズウィック砲兵会社の創業者)

2023.04.14

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。科学技術は人類の文明が発展するために多くの進化を遂げてきました。生活を豊かにする発明が多数行われている一方で、戦争のときに使用する軍事的な開発という意味でも技術の進化は重要な意味を持っています。イギリスの発明家であるウィリアム・アームストロングは、自身の名を冠した「アームストロング砲」を開発したことで知られています。アームストロング砲は、クリミア戦争におけるインカーマンの戦いで苦戦したイギリス軍を助けるために開発されました。それまでの大砲とは発射性能や飛距離が大幅に改善されたため、イギリス軍のみならず各国の兵器としても利用されました。今回は、そんなウィリアム・アームストロングの生涯を振り返っていきましょう。

ウィリアム・アームストロングの前半生(弁護士として活躍)

アームストロングは、1810年にイングランド北部の村で生まれました。アームストロングの実家は穀物商を営んでいたため、のちに発揮される商才が育まれる生活を送っていました。16歳までニューカッスルとウィッカムの私立学校で勉強し、その後はグラマースクールに進学して勉学に励んだと言われています。グラマースクールの卒業後は父親の希望に従い、弁護士を目指しました。聡明なアームストロングは地道に努力を重ね、無事に弁護士になることに成功します。最初は父親の友人で弁護士をしていたアーマラー・ドンキンの弟子となり、ロンドンで5年間の修行を行いました。ニューカッスルに戻った後はドンキン事務所の共同経営者となり、弁護士としての道を歩み始めました。

アームストロングは、11年間弁護士として活躍しましたが、本人は工学の技術に対しても並々ならぬ思いを抱いていました。アームストロングと工学との出会いは、彼が趣味の釣りをしていたときに発見した石切場の動力用水車でした。水車は見かけ上は動いていましたが、技術的な知見のあったアームストロングは水力を十分に活用できていないと感じたそうです。そこでアームストロングは、自ら考えた回転式の原動機を開発し、友人であるヘンリー・ワトソンの工場で試作品を作り上げました。この装置自体はあまり評価されませんでしたが、アームストロングはこのときすでに次の装置の発明に着想を得ていました。ピストン式の水力原動機を使って、クレーンの動力として使用しようと考えていたのです。1845年、ニューカッスルで水道の工事が計画されました。アームストロングはこの機を逃すまいと、自分の装置を売り込みにいきました。アームストロングが発明した水力原動機は採用され、試作機は十分に役割を果たしました。試作機の実績は評価され、さらに3基の原動機が増設されました。アームストロングは発明家として実力を認められ、翌年の1846年に王立教会のフェローに選定されました。この成功を機に、アームストロングは水力関連機器の製造事業を始めました。W.G.アームストロング社を立ち上げ、クレーンの開発や橋の建設事業などで大きく活躍していきました。

ウィリアム・アームストロングの後半生(アームストロング砲の発明)

アームストロングが後世に名を残すことになったのは、クリミア戦争における「アームストロング砲」の開発がきっかけです。1853年、イギリスとフランス・オスマン帝国を中心とする同盟軍とヨーロッパの大国ロシアがクリミア半島を舞台に激突したのがクリミア戦争です。軍事的な需要が高まっていた情勢の中で、アームストロングはイギリス軍から機雷の設計を受注しました。発明は実用化に至らなかったものの、このときの経験はアームストロングに軍事産業への興味を抱かせるものでした。1854年、イギリス陸軍が大砲の移動に困っているのを知ったアームストロングは、軽量で機動性が高く、攻撃力も失わない大砲の開発を思いつきました。アームストロング砲と名付けてイギリス軍に売り込むと、1858年に正式に軍用の野砲として正式に採用されました。

アームストロング砲は、W.Gアームストロング社とは別に創設したエルズウィック砲兵会社の製品として販売されました。このような動きとなった背景には、利益相反という避難を避けたかったという狙いがみられます。エルズウィック砲兵会社はイギリス政府との専属契約を結び、以降アームストロングは軍事産業により積極的に乗り出すことになります。エルズウィック砲兵会社は経営陣にジョージ・レンデルを招き、火砲の設計技術者にはアンドルー・ノーブルを採用しました。アームストロングは陸軍省に任官し、リッチ王立造兵廠の主任として設備の近代化に取り組みました。しかし、順調だったのはここまで。保守的な陸軍軍人や軍事産業のライバル企業から操作の難しさや価格の高さ、危険などの理由で批判に晒されました。クリミア戦争が終結すると大砲の需要も落ち込み、1862年、イギリス軍はエルズウィック砲兵会社への注文を打ち切りました。軍からの注文打ち切りの知らせを聞いたアームストロングは陸軍省造兵官を辞任。エルズウィック砲兵会社は倒産の危機にさらされましたが、アメリカ南北戦争の勃発を機に両陣営に兵器を輸出することで経営危機を免れました。

1864年、W.G.アームストロング社とエルズウィック砲兵会社は合併し、サー W.G.アームストロング社となりました。これまでの陸軍への開発と違い、サー W.G.アームストロング社は、海軍向けの兵器生産に重点を変えました。1867年にはチャールズ・ミッチェル社と提携し、ロー・ウォーカー製の軍艦にアームストロング製の大砲を搭載することが決定しました。1882年にはチャールズ・ミッチェル社とも合併し、サー・ウィリアム・アームストロング・ミッチェル有限責任会社となりました。大砲の製造を行いながら、軍艦の開発も行ったことで、会社の軍事需要はみるみる高まっていきました。また、可動橋の建設にも関わっていたことでも有名です。

アームストロング社が事業を拡大していく間もアームストロングは会社のトップであり続けたものの、陸軍省から退官した後は部下のレンデルやノーブルに業務を任せていました。アームストロングは民間技術者協会や機械技術者協会の会長も努めながら、やがてアームストロング男爵に叙されました。アームストロング砲の開発から始まり、軍事面で多大な功績を残したアームストロングは、1900年にその生涯を終えました。

今回はクリミア戦争でイギリス軍を助けたアームストロング砲の開発で後世に名を残したウィリアム・アームストロングの生涯を振り返ってきました。もともと技術者としての才覚があったものの、それを軍事的に利用した彼は多くの戦場で使用される大砲を作ったことで偉人として語り継がれています。もちろん兵器の開発は道徳的には誇るべきものではありませんが、必要とする人にとっては救いの手であったことを忘れてはいけません。ものづくりの現場が生活を便利にするものだけではなく、戦争をしている国々を舞台にしていることにもたまには目を向けてみると、面白い発見をできるでしょう。

アーカイブ