ブログ

【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー ロールフィルムの発明家 ジョージ・イーストマン(社会的に大成功したのにピストル自殺をしてしまった、イーストマン・コダックの創業者)

2023.03.10

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。現在、写真を撮るのはスマートフォンや一眼レフカメラが一般的です。また、それらのカメラでは連続で写真撮影が可能な機能があります。しかし、一昔前のカメラでは今ほど高速の連続撮影は出来ませんでした。高速の連続撮影がカメラで可能になった背景には、ロールフィルムの発明があります。ロールフィルムとは、軸に巻き付けられた帯状の写真フィルムを指しており、これによって複数枚の写真を撮影することが可能となりました。そんなロールフィルムを発明したことで有名なのが、アメリカ人発明家のジョージ・イーストマン(George Eastman)です。彼は、かつて世界最大の写真メーカーとして有名だったイーストマン・コダックを創業、ロールフィルムを発明しカメラでは一般的な機能として普及させました。さらに、映画フィルムの発明のきっかけを作るなど、映画発明の基礎技術を確立した人物でもありました。そこで今回はロールフィルムの発明で有名なアメリカ人発明家のジョージ・イーストマンの生涯を振り返っていきましょう。

 

ジョージ・イーストマンの生涯(ロールフィルムの発明まで)

1854年(嘉永7年)7月12日、ジョージ・イーストマンはアメリカ合衆国ニューヨーク州のウォータービルで3人姉弟の末っ子として誕生しました。イーストマンの父は1840年代初頭からニューヨーク州北西部の街ロチェスターでイーストマン商業専門学校の経営をしていました。しかし学校経営だけで生活することは難しく、イーストマンの両親はウォータービルで農場も営んでいたそうです。

幼いころのイーストマンはほぼ独学で勉強を続けていたそうですが、8歳になった頃にロチェスターの私立学校に通い始めました。しかし、ちょうどこのころから父の健康状態が悪くなり、農場を閉じることを余儀なくされ一家はロチェスターに引っ越しました。1862年(文久2年)の5月、父は脳障害により若くしてこの世を去りました。母は、イーストマンらを学校に通わせるために寮生を受け入れて生計を立てることになりました。

1870年(明治3年)、イーストマンの姉・ケイティはポリオ(急性灰白髄炎, ポリオウイルスにより小児を中心に引き起こす感染症で脊髄性小児麻痺とも呼ばれる。ワクチンの接種により99%の人が有効な抗体を獲得すると言われているが、成人でポリオに感染すると致死率は15~30%と非常に高く危険な感染症である。)に感染し若くしてこの世を去ってしまいました。姉の死もあり、イーストマンは高校を辞めることになり働き始めました。

その4年後の1874年(明治7年)、イーストマンは写真に対して興味を持ち始めました。この頃の写真といえば、ガラス板に感光乳剤を塗り、乾いてしまう前に撮影するという方法が一般的となっていました。イーストマンはこの頃から写真に関する本格的な研究を始めていきました。

3年間研究を続けた結果、イーストマンは乾板と呼ばれる乾式の写真板(写真術で利用された感光材料の一種で写真乳剤を無色透明なガラス板に塗布したもの)の発明に成功しました。この乾板は高く評価され、アメリカに加えてイギリスでも特許を取得しました。そして1880年(明治13年)、イーストマンは写真事業を本格的に開始しました。

その後も写真に関する研究を継続し、1884年(明治17年)には当時ガラスだった写真基材をロール紙に変更することに成功し特許を取得しました。

そして1888年(明治21年)、ついにイーストマンはロールフィルムの発明に成功し、ロールフィルム・カメラとして特許を取得しました。ロールフィルムの誕生により、高速での連続撮影が可能となりました。そしてイーストマンは、“You press the button, we do the rest.(あなたがシャッターを押しさえすれば、後は我々がやります)” のキャッチフレーズで、10 USDを払えば顧客から送り返されたカメラのフィルムを現像し100枚の写真と新しいフィルムを装填するというビジネスを展開し始めました。

また同年に、エドワード・マイブリッジ(イギリス人写真家)やルイ・ル・プランス(単レンズカメラで世界初の映画撮影に成功したフランス人技術者で「映画の父」と呼ばれている)らが映画用フィルムを発明しました。この映画用フィルムの発明には、イーストマンが発明したロールフィルムの技術が使用されていたため、映画が誕生するきっかけとなった人物でもありました。

 

ジョージ・イーストマンの生涯(その後の活躍)

1888年(明治21年)9月4日、イーストマンは「コダック」を商標登録しました。そして世界で初となるロールフィルムが搭載されたカメラ「No.1 コダック」を発売しました。さらに写真の研究は継続しており、カメラ発売の翌年にはセルロース製の透明な写真フィルムの発明に成功しました。

1896年(明治29年)までにはNo.1コダック100台を販売しました。さらに、1900年(明治33年)には新たにブローニーシリーズ(ロールフィルムが搭載されたカメラブランドでボックスカメラとフォールディングカメラが登場した)を1 USDで販売開始しました。このブローニーシリーズの登場により、世間でカメラと写真が急速に普及していきました。

また、イーストマンはこの頃フィランソロピー活動(人々の健康や幸福、QOL改善を目的とした利他的活動や奉仕的活動など)も行っていました。カメラビジネスの収益の一部は教育機関や医療機関の創設のために寄付していました。具体的には、1900年(明治33年)マサチューセッツ工科大学への寄付により同大学の第2キャンパス設立を支援、翌年には力学研究所(ロチェスター工科大学の前身の機関)には62万5,000 USDを寄付しました。

イーストマンはその後も働き続けた人生でした。1911年(明治44年)、Eastman Trust and Savings Bankという銀行を設立しました。ここでは銀行従業員の福利厚生を充実させることに尽力し経営にあたっていたそうです。

そしてこの頃にはカメラや写真が普及していたこともあり、業界では競争が激しくなっていました。イーストマンらはカメラからフィルム製造へと軸を移し、他社と比べてクオリティの高いフィルムを大量生産するビジネスモデルへの転換に成功しました。これによりカメラ製造業者が事実上のビジネスパートナーとなりました。

さらに、この頃には黒人を迎え入れている2大学やヨーロッパ各地、ほか様々なプロジェクトに対して総額1億 USD以上もの支援をしました。1916年(大正5年)にはイーストマン歯科診療所の設立資金を準備し、完成後には無料で歯科診療を実施するなど幅広く社会貢献にあたっていました。

その後も様々な支援活動を行っていましたが、脊柱管狭窄症と思われる病を患い、立つことさえも難しく苦しい日々を送りました。ちょうど同時期には母も同じ病気を患っていたと思われ、母が苦しむ姿を毎日目にしないといけない環境にも苦しんだそうです。自身の身体の痛みや苦しみに耐えきれなくなったイーストマンは1932年(昭和7年)3月14日、自宅でピストル自殺をして命を落としました。残された遺書には“To my Friends, My work is done. Why wait?(友よ、私の仕事は終わった。なぜ待つのか?)”と書かれていました。

 

今回はカメラでの高速連続写真撮影を可能にするロールフィルムを発明したことで有名なアメリカ人写真家のジョージ・イーストマンの生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。今では一般的となった連続写真撮影ですが、ロールフィルムの発明によってカメラや写真の普及とともに一般的となったことがわかりました。さらに、映画の普及にも大きく影響を与えた発明だったこともわかりました。発明家としてだけではなく、さまざまな団体に対して多額の寄付をして社会貢献に励んだ人生でもありました。晩年は病気に苦しみ、自殺という形で人生に幕を閉じてしまったことは悔しくてたまりません。今私たちが何気なく使っている製品や技術はこのように先人の発明家たちの努力の塊です。発明の誕生秘話を知るだけで周囲の物事への見方が変わってくるのではないでしょうか。これからどのような発明が誕生してどのような世の中になっていくのかとても楽しみですね。

アーカイブ