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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー ソフトタイプのコンタクトレンズの発明者 レオナルド・トーレス・ケベード(ポリメタクリル酸ヒドロキシエチル(pHEMA)を材料としてソフトコンタクトレンズを発明したチェコの化学者)

じっくりヒストリー IP HACK

2025.07.25

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。眼鏡やコンタクトレンズは、視力に異常のある人のために開発されました。コンタクトレンズにはハードタイプとソフトタイプの2種類があり、それぞれにメリットとデメリットがあります。ソフトコンタクトレンズは軽い素材で作られているため、装着感のよさや管理の手軽さが特徴です。コンタクトレンズの歴史は、1508年から始まったとされています。レオナルド・ダ・ヴィンチが視力矯正のための道具としてコンタクトレンズのアイデアを考案し、その後長い年月をかけて研究が進められてきました。ソフトタイプのコンタクトレンズを生み出したのは、チェコの化学者オットー・ウィフテルレです。彼は化学研究の分野で、多くの功績を残しました。今回はそんなオットー・ウィフテルレの生涯を振り返っていきましょう。

オットー・ウィフテルレの前半生(チェコ初の合成繊維である「シロン」を発明するが、ナチスによって投獄される)

オットー・ウィフテルレは1913年、チェコで農機具と自動車の工場を営む父のもとに生まれました。自身は家業を継がず、科学者の道を選びました。

ウィフテルレはプロスチェヨフの高校を卒業した後、チェコ工科大学に進んで化学・技術学部で学び始めました。彼は医学にも興味を持っており、1936年に大学を卒業した後もそのまま大学で勉強を続けました。1939年に化学に関する博士論文を提出しましたが、ナチス・ドイツの保護領体制により、以後の大学での活動が禁止されてしまいます。そのため、ズリーンにあるトマーシュ・バチャの工場の研究所に移って研究を続けました。バチャの研究所では、ポリアミドやカプロラクタムなどのプラスチックの技術的な準備を主導しました。

1941年、ウィフテルレの研究チームはポリアミドから繊維を作る方法を発明し、チェコ初の合成繊維である「シロン」という物質が生み出されました。その後ウィフテルレは1942年、ナチスによって投獄されましたが、数ヶ月の拘留の後に釈放されました。

第二次世界大戦後、ウィフテルレは大学に戻り、有機化学を中心として研究を行い、一般化学や無機化学の教育に積極的に取り組みました。時代に先駆けたコンセプトを掲げて、無機化学の教科書の執筆も行いました。1949年、プラスチックの技術で博士号を取得し、新しいプラスチック技術学部の設立に全力を注ぎました。1952年、プラハで新設された化学技術研究所の所長に就任しました。

オットー・ウィフテルレの後半生(ポリメタクリル酸ヒドロキシエチル(pHEMA)を材料としてソフトコンタクトレンズを発明し、アメリカで実用化される)

ウィフテルレは、生体と接し続けても問題のない素材を見つけるために、架橋性の親水性ゲル(ヒドロゲル)を合成する研究に専念していました。同僚のドラホスラフ・リムの協力により、適切な機械的特性を持ち、最大で40%の水を吸収できる透明なヒドロゲルの作成に成功しました。これはポリメタクリル酸ヒドロキシエチル(pHEMA)という化合物であり、1953年にリムと共同で特許を取得しました。

ウィフテルレはpHEMAがコンタクトレンズに適した素材ではないかと考え、ソフトコンタクトレンズに関する最初の特許を取得しました。1954年、初めてこの素材を眼窩インプラントとして使用しました。ウィフテルレは1957年、ポリスチレン製の型から約100枚のソフトレンズを製造しましたが、型からレンズを外すときに縁が裂けたり破れたりし、また、手作業による最終的な仕上げが必要でした。ウィフテルレはコンタクトレンズの改良のための研究を続けていましたが、1958年の共産主義者による政治的粛清により、ウィフテルレをはじめとする研究者は化学技術研究所を去らなくてはなりませんでした。

1957年、プラハでは「高分子化学に関する国際シンポジウム」が開催されました。このシンポジウムに参加したチェコスロバキアの指導者は、国をあげて合成ポリマーの研究所を設立する必要性を強く感じました。1958年、チェコスロバキア科学アカデミーの高分子化学研究所が設立され、ウィフテルレは所長に就任しました。当時、研究所の建物は建設中であったため、ウィフテルレは自宅でヒドロゲルをコンタクトレンズに適した形状にするための実験を行っていました。

1961年、ウィフテルレは、子供向けの組み立てキットと息子の自転車についていたライト用の発電機、ベル用変圧器を使った自作の装置を使ってヒドロゲルコンタクトレンズの製造に成功しました。この装置で材料を注入するための型やガラス管もすべて自作しました。完成したレンズを自分の目に装着して安全性に問題がないことを確かめた上で、製法を遠心成形法として書類にまとめ、数日後に特許を出願しました。特許は認められ、1962年までに5,500枚のレンズを製造しました。その後National Patent Development(NPD)はアメリカでのソフトコンタクトレンズの製造権を取得し、サブライセンスを受けたボシュロムが製造を開始しました。アメリカではContinuous Curve Contact Lensesなどに特許の侵害で訴訟を起こされましたが、最終的にはウィフテルレとNPDが勝訴しました。

ウィフテルレはコンタクトレンズの功績だけでなく、国際純正・応用化学連合をはじめとする国際的な組織での活動によって、国外にもその名を知られるようになりました。1957年と1965年に開催されたプラハでのシンポジウムの準備に参加し、参加者から高い評価を得ました。有機化学、無機化学、高分子化学、生物医学材料の分野で研究を行い、書籍も数多く著しました。これらの分野で生涯におよそ180件の特許を取得し、200冊以上の書籍を出版しました。

今回は、ソフトコンタクトレンズを発明したオットー・ウィフテルレの生涯を振り返りました。幅広い分野で活躍した彼の生涯は、科学の発展に大きく寄与しました。人の役に立つ発明を必死に行っていくことは非常に素晴らしいですね。

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