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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 無線電信を発明した グリエルモ・マルコーニ(大西洋横断無線通信に成功してイタリアの国家的なヒーローとなった発明家)

じっくりヒストリー IP HACK

2024.11.11

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。無線電信は、電波によって信号を送受信する連絡方法です。無線通信を実現するための最初の手段として発明されました。発明時点ではモールス符号を使用し、長さの異なる電波を組み合わせて音声に変換するという仕組みとなっていました。やがて周波数を利用したラジオテレタイプの無線が登場し、モールス信号から周波数の時代へと移っていきます。警察や軍などでは、現在もモールス信号による無線通信が利用されています。無線電信を開発したのは、イタリアの発明家グリエルモ・マルコーニです。彼は自宅で電波を使った通信の実験を行い、通信の世界に革命をもたらしました。今回はそんなグリエルモ・マルコーニの生涯を振り返っていきましょう。

グリエルモ・マルコーニの前半生(自宅で家庭教師から電気工学を学び、自宅で勝手に実験をして無線電信を発明する)

グリエルモ・マルコーニは1874年、イタリアのボローニャで生まれました。イタリア人の父とアイルランド人の母との間に生まれ、3人兄弟の末っ子でした(母親は父親の再婚相手であり、兄の1人は母の連れ子)。2歳から6歳まで、家族はイングランドのベッドフォードで暮らしました。家庭は裕福であり、暮らしぶりに不自由はありませんでした。一般家庭のように学校には通わず、何人もの家庭教師から数学や化学、物理などを学びました。

マルコーニが特に興味を持ったのは、電気に関する分野です。大きなきっかけとなったのは、ヴィンツェンツォ・ローザという教師と出会ったこと。彼との出会いが、マルコーニの電気への関心を大きく膨らませていきました。マルコーニとローザの出会いは、トスカーナのリヴォルノという町に滞在していたときのことです。マルコーニ母子は、秋や冬になると母の姉妹が住むこの町に訪れることを毎年の恒例としていたのです。母は現地の教師で、数学や物理を教えていたローザに家庭教師を依頼しました。ローザはトリノ王立大学で数学と物理の学位を取得しており、ヘルツ波についての研究を行っていました。マルコーニも彼を慕い、17歳の時に1年間の個人授業を受けることになります。ローザの自宅にはヘルツ波の実験を行う装置があり、マルコーニは自らの体験として、電波についてのさまざまな実験を行うことができました。この個人授業の後、マルコーニとローザは別々の進路に進むことになりますが、2人の間には信頼と尊敬による関係ができあがっていました。

18歳になったマルコーニはボローニャに戻り、ボローニャ大学のアウグスト・リーギ教授と知り合います。彼もヘルツ波に関する研究をしており、マルコーニはリーギの講義に参加し、大学の研究室や図書室を利用する許可をもらって勉強に励みました。

リーギのもとでヘルツ波についての知識を蓄えたマルコーニは、自宅で実験を行いました。電波を使った通信機能を実現させることを目標に、新たなシステムの構築を目指していたのです。無線通信のアイデア自体は新しいものではなく、これまでに何人もの技術者が実験を行っていました。しかしそのいずれも、商業的な成功には至りませんでした。マルコーニの実験も、まったくのゼロから新しいシステムを作り出したわけではありません。既存の部品を改良して、実用的なシステムを完成させたのです。

完成当初は、ほんのわずかな距離までしか信号を送信できませんでした。通信可能な距離を伸ばすため、マルコーニは実験の場所を自宅から屋外へと移しました。送受信機のアンテナを長く伸ばし、垂直に配置したうえで片方を設置させると、より長い距離で通信できるようになったのです。距離にして1.5km、丘を越えての通信に成功しました。マルコーニはより資金を投入すれば、さらなる遠距離での通信が可能になると考えました。

ところがイタリアにおいて、マルコーニの成果に興味を持つ者はわずかでした。マルコーニは資金援助を受けるため、イギリスに向かいました。ここで出会ったのが、郵政庁GPOの主任電気技師ウィリアム・プリース。無事に支援者が見つかり、マルコーニはより規模の大きな実験を行いました。渡英直後、非接地型のパラボラ反射鏡アンテナを試験的に使用します。郵政庁GPOと貯蓄銀行の屋上間でデモンストレーションを行い、イギリス国内ではこの実験が大々的に報道され、マルコーニの名前はイギリス全土に知れ渡ることになります。

その後も公開実験を幾度も行い、マルコーニはイギリスを飛び出し世界的な注目を集めていきました。1897年にイタリアに帰国した際には、政府に向けた公開実験を行いました。

1898年アイルランド、1899年フランス・アメリカでデモンストレーションを実施し、無線電信の存在とマルコーニの名を世の中に知らしめたのです。

無線電信ビジネスを軌道に乗せるために、マルコーニが目をつけたのは船舶相手のサービスを展開することでした。それまでの通信手段は有線のものしかなく、陸上・海上のあらゆる箇所に電線が張り巡らされていました。このような状況にあっては、遠距離での通信ビジネスに参入しても勝ち目が薄いと考えたのです。そこで、恒久的施設による無線電報サービスの営業を開始しました。ドイツの海岸局と船舶局を開設する準備を整え、カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号などでサービスを運営しました。1900年には、マルコーニ国際海洋通信会社MIMCCを分社させて電報サービスのテスト、そして営業開始にまで漕ぎ着けました。

グリエルモ・マルコーニの後半生(大西洋横断無線通信に成功する)

無線電報システムによって脚光を浴びたマルコーニは、大西洋を横断する無線通信の実現に取り掛かりました。1901年、アイルランドのウェックスフォード県ロスレアに無線局を作り、コーンウォールのポルドゥーとアイルランドのゴールウェイ県クリフデンの無線局を中継する実験を開始しました。およそ3500mの距離にあっても通信自体は可能でしたが、精度は十分とは言えないものでした。ただしこれは、「S」を表すモールス符号を繰り返し送ったことで、雑音と区別しづらかった可能性が指摘されています。1902年、ついに初の大西洋横断無線通信に成功します。しかし、やはり通信の品質はなかなか安定せず、マルコーニは改良に手を焼きました。

それからというもの、無線電話の開発や超短波の開拓など、無線に関する重要な発明をいくつも成し遂げました。タイタニック号事件のときにも、マルコーニの無線が救助活動に大きく貢献しました。その一方で、汚職事件や特許紛争など、立場が危ぶまれた場面も幾度もありました。第一次世界大戦時にはイタリア軍の無線通信部門の責任者となり、最終的にイタリア陸軍では中尉、海軍では司令官となりました。

1937年、マルコーニは心筋梗塞によって亡くなりました。彼の偉業を讃え、イタリアでは国葬が執り行われました。遺体はエミリア=ロマーニャ州のサッソ・マルコーニに埋葬されました。フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂には、マルコーニの葬儀を記念した像が設置されています。

今回は、無線電信の発明によって通信産業を躍進させたグリエルモ・マルコーニの生涯を振り返りました。現代では電波を使った通信が当たり前の世の中になっていますが、それが実現した歴史の中では偉大な発明があったことを忘れてはいけません。身近にあるものの歴史を振り返ると、たくさんのドラマがあって面白いですね。

 

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