【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー DNAの「二重らせん構造」を明らかにした ジェームズ・ワトソン(フランシス・クリックとともにDNAの研究を行い、二重らせん構造を発見してノーベル生理学・医学賞を受賞した天才生物学者)
2024.07.29
AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。DNAは遺伝子とも呼ばれ、生体に欠かせない分子のひとつとして知られています。細胞レベルでの生体の発生から、機能の進化、整体としての成長と生殖のための遺伝的命令を司っています。そんなDNAの構造は、二本のポリヌクレオチド鎖がからまっている「二重らせん構造」です。塩基・糖・リン酸が結合し、一本の長い鎖(ポリヌクレオチド鎖)を構成します。塩基はグアニン、シトシン、アデニン、チミンという4種類の中からいずれか1つが結合し、DNAを作っているのです。二重らせんは相互に補完する性質(相補的結合)があり、グアニンとアデニン、チミンとシトシンが結合する形となっています。この構造を発見したのは、アメリカ出身の分子生物学者ジェームズ・ワトソンです。彼はフランシス・クリック、モーリス・ウィルキンスらとともにDNAの研究を行い、DNAの構造を明らかにしました。この発見で、1962年のノーベル生理学・医学賞を受賞しています。今回はそんな、ジェームズ・ワトソンの生涯を振り返っていきましょう。
ジェームズ・ワトソンの前半生(DNAが二重らせん構造であることを解明して、ノーベル生理学・医学賞を受賞する)
ジェームズ・ワトソンは、1928年アメリカ・イリノイ州シカゴで生まれました。1947年にシカゴ大学を卒業し、1950年からはアメリカインディアナ大学大学院で生物学の博士号を取得しました。
1956年から1976年の間は、ボストンのハーバード大学生物学専攻にて教授をつとめ、分子生物学を広めました。また、1968年から1993年にかけてニューヨークのコールド・スプリング・ハーバー研究所の所長、1993年から2007年までは会長に就任。1989年から1992年には、NIH(国立衛生研究所)の国立ヒトゲノム研究センター初代所長もつとめました。全米科学アカデミー及びイギリス王立協会会員であり、大統領自由勲章を受勲しています。
ワトソンが研究していたのは、DNAについて。DNAが最初に発見された1869年から、さまざまな実験が繰り返し行われてきました。生殖と遺伝に関係するDNAの性質を解き明かすことは、生物の進化を理解するヒントとなりうるものとなります。時代が進むにつれ、DNAは塩基、糖、リン酸によってできていること、動物だけでなく植物にも存在すること、規則的な構造をとっていることなどが明らかにされていきました。
ワトソンは大学院で、塩基の模型を使ったDNAの研究をしていました。そんな彼の元に、とある写真が送られてきます。それはイギリスの物理化学者ロザリンド・フランクリンが撮影した、X線回折の写真でした。写真の送り主は、X線回折の研究を行っていたモールス・ウィルキンスです。このX線回折のデータを参考に、ワトソンはフランシス・クリックらとDNAの構造に関する議論を始めました。その結果、DNAが二重らせん構造であることがわかったのです。この発見は、のちの分子生物学を飛躍的に発展させるきっかけとなりました。1962年、ワトソンとクリックはノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
ジェームズ・ワトソンの後半生(人種差別的な発言によって失脚して、生活苦からノーベル賞のメダルを競売にかける)
偉大な業績を残した反面、ワトソンは過激な思想と発言によって信頼を失います。2007年、イギリスの雑誌サンデー・タイムズの一面に「黒人は人種的・遺伝的に劣等である」とのワトソンの発言が掲載されました。インタビューを行った結果、「アフリカの将来については全く悲観的だ」「(我々白人が行っている)アフリカに対する社会政策のすべては“アフリカ人の知性は我々と同等である”という前提で行われているが、それは間違いである」「黒人従業員の雇用者であれば、容易にそれを納得できるだろう」などと語り、ヨーロッパに大きな波紋を呼びました。この新聞が発行されたとき、ワトソンはイギリスに滞在中でした。大きな反感を買ったワトソンに対する批判の声は止むことを知らず、謝罪に加え、発言の真意とは異なるということをコメントしましたが、事態はすでに手遅れのところまで進んでしまっていました。アメリカに緊急帰国したものの、最終的にはコールド・スプリング・ハーバー研究所をクビになり、社会的な信用を失いました。
この失言でワトソンの名声は失墜し、学会の態度も冷たくなっていきました。名声を取り戻すために大学に寄付をしようと考えますが、急激に仕事を失ったせいで生活は困窮し、かつての栄光のシンボルであるノーベル賞のメダルを競売にかけなくてはならないほど追い込まれていったのです。このメダルはニューヨークのクリスティーズで競売に掛けられ、475万7000ドル(当時のレートで日本円約5億4700万円)で落札されました。存命のノーベル賞受賞者のメダルが競売されたのは、これが史上初めてのことでした。落札した人物は、ロシアの実業家であるアリシェル・ウスマノフ。ウスマノフは初め、名乗り出るつもりはありませんでしたが、ワトソンの世界的な功績を讃えて「博士は史上最も偉大な生物学者の一人。メダルは自分で持っているべきだ」と主張。無償でワトソンの元にメダルを返還しました。
今回は、DNAの二重らせん構造を発見したジェームズ・ワトソンの生涯を振り返りました。分子生物学の発展に寄与したことは非常に大きな功績でしたが、のちの人種差別発言で社会的信用を失ってしまったことは残念です。差別的な考え方さえ持っていなければ、もっと研究に集中できる環境で大きな成果を出したはず。とはいえ、彼の功績が讃えられるべきものであるのは間違いありません。公平な目線や信用を失わないようにする態度は忘れないようにしたいですね。