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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 「メンデルの法則」を真っ向から否定した トロフィム・ルイセンコ(スターリンに気に入られて権威を振るい、正しい理論を唱える学者たちを弾圧した恐怖の生物学者)

IP HACK

2024.07.26

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。生物学は、動植物の生態を研究し、進化や構造、機能などを追求する学問です。これらの情報を捉えることで、動植物の交配や遺伝子の組み替えを可能にしてきました。人間の食生活に欠かせない作物を改良し続けることで、より簡単に、多くの量を採取できるようにするのが生物学の大きな役割です。遺伝子研究の始祖となったのが、旧オーストリア帝国の生物学者メンデルが提唱した、「メンデルの法則」です。親の特性を子が引き継ぐという法則を発見し、のちの生物学の発展に大きく貢献しました。しかしこの「メンデルの法則」を真っ向から否定した人物がいます。その人物は、ソビエト連邦時代に共産党員として活動した、生物学者のトロフィム・ルイセンコです。当時のソ連における絶対的な指導者だったスターリンの信頼を得たルイセンコは、それまで主流とされていた遺伝学に反発し、独自の進化論を唱え続けました。今回はそんなトロフィム・ルイセンコの生涯を振り返っていきましょう。

トロフィム・ルイセンコの前半生(メンデルの法則と「遺伝子」の存在を否定する学説を提唱してスターリンに気に入られる)

トロフィム・ルイセンコは1898年、ウクライナのポルタヴァ地方カルロフカ・コンスタンチノグラートの農家の子として生まれました。義務教育を終えると、ルイセンコはキエフ園芸専門学校にはいり、1925年に卒業。その後はキロババードの育種試験場に赴任し、植物の研究を行い始めました。小さい頃から自然に触れてきたルイセンコにとって、植物の状態を観察するのは非常に興味深いものでした。熱心な研究を積み重ね、ルイセンコの中に独自の生物進化論が芽生えていったのです。

1929年、ルイセンコはオデッサの選択遺伝研究所へと転職。ここでルイセンコは、「環境因子が形質の変化を引き起こし、その獲得形質が遺伝する」という学説を提唱します。この学説がスターリンの目に止まり、手厚い支持を受けることになります。絶対的な指導者であるスターリンの支持を得るということは、ソ連国内での地位を約束されたも同然でした。以降、ルイセンコの学説に多くの学者が賛同し、急激に勢力を拡大していきます。そして、既存の遺伝学であるメンデルの法則と「遺伝子」の存在を完全に否定しました。

ルイセンコが勢力を獲得した理由は、その学説の正確性や権威性という部分ではありませんでした。むしろルイセンコの学説には不足している点が多く、研究の世界に身を置く学者たちからは反対意見も上がっていたのです。そのような状況の中でルイセンコが支持を得たのは、恐怖政治による弾圧が大きな理由でした。

当時、ソ連ではスターリンに反発する科学者や政治家、著名人を次々に逮捕し粛清する「大粛清」が行われていました。これはスターリンによる、彼を脅かす存在を未然に取り除き、スターリンにとって都合のよい国家を作り上げるための政策でした。大粛清の波はさまざまな学問分野にも及び、生物学の分野にもその影響が現れていったのです。スターリンの寵愛を受けるルイセンコの学説を否定することは、スターリンを否定することと同義です。そのため、処刑を恐れた多くの学者が、自分の矜持を捨ててルイセンコの学説を支持していたのです。

トロフィム・ルイセンコの後半生(スターリンの死後、政争に巻き込まれて失脚する)

ルイセンコの学説を取り巻く反遺伝学運動は、「ルイセンコ論争」と呼ばれるようになります。遺伝学者にとって悪夢のようなこの運動は、ルイセンコが力をつけ始めた1920年代末期から1964年まで続きました。

1953年のスターリンの死後、ソ連国内は激動の政治戦争が巻き起こります。スターリンの後任であるニキータ・フルシチョフは、スターリン時代の政治体制や大粛清の実態などを暴露し、個人崇拝を批判しました。この動きはスターリン批判と呼ばれ、かつてはスターリンの信頼を得ていたルイセンコの地位も危うくなっていきました。ルイセンコはフルシチョフに取り入り、大きな後ろ盾を得ることで再起を図りました。しかし頼みの綱のフルシチョフは過度の暴言や外交での横暴な振る舞いから失脚し、ルイセンコは完全にその権威を失いました。

フルシチョフの解任後、1965年にルイセンコは科学アカデミーの遺伝学研究所所長を解雇されてしまいます。にも関わらず、ルイセンコが遺伝学研究所で研究室を率いることは許可されていました。それはルイセンコの言葉や手法、アイデアに人を惹きつける魅力があったからではなく、国家権力の威信を守るためでした。ルイセンコはその生涯で、数多くの賞を与えられました。1976年、モスクワの地で眠りました。

今回は、第二次世界大戦の少し前から冷戦期におけるソ連で生物学者として活動したトロフィム・ルイセンコの生涯を振り返りました。彼の提唱した学説は検証が十分にされておらず、またそれまでの生物学を踏まえていない内容だったために批判の対象となりました。そんなずさんな内容の学説でも支持を受けられたのは、スターリンによる独裁がどれだけ強烈だったのかを物語っています。罪のない人間が多く粛清された出来事は忘れてはいけませんし、生物学の進化の裏側には悲しい歴史があったことも覚えておきたいですね。

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