【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー シュレーディンガー方程式を基礎に置く波動力学を生み出した エルヴィン・シュレーディンガー(「シュレーディンガーの猫」「シュレーディンガー方程式」などに名前を残している天才物理学者)
2024.07.19
AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。量子力学は、現代物理学の基本となる考え方です。ニュートン力学のような古典論では、原子や分子、電子などの肉眼で見えない大きさの物質による現象をうまく説明できませんでした。量子力学は、そんなミクロな物質の現象を説明できる考え方として広く知られています。量子力学には、大きく分けて2つの方程式があります。ひとつはハイゼンベルクの運動方程式を基礎に置く行列力学。そしてもう一つが、シュレーディンガー方程式を基礎に置く波動力学です。これらの方程式は、形式が異なるものの最終的な解は同じになります。説明する対象によって、より簡単なものを使い分けられるため、物理学の分野では両方とも理解しておく必要があるのです。そんな波動力学を編み出したのが、オーストリア出身の物理学者エルヴィン・シュレーディンガーです。「シュレーディンガーの猫」「シュレーディンガー方程式」などに名前を残している通り、物理学の研究で非常に有名な人物として知られています。今回はそんなエルヴィン・シュレーディンガーの生涯を振り返っていきましょう。
エルヴィン・シュレーディンガーの前半生(ウィーン大学でボルツマンにあこがれて理論物理学を学ぶ)
エルヴィン・シュレーディンガーは1887年、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーンで生まれました。父ルドルフはバイエルン王国で育ったこともあり、深い教養を持った人物でした。シュレーディンガーは父から教育を受け、さまざまな物事に興味を示して過ごしていきました。
聡明な子どもだったシュレーディンガーは、高度な教育をしているギムナジウムに通い始めます。そこでは自然科学に加えて古典言語の文法、ドイツの詩を学びました。シュレーディンガーは文化的な作品にも精通しており、ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーの作品を好んで鑑賞していました。
1906年、シュレーディンガーはウィーン大学に入学して物理学を専攻しました。ウィーン大学では、シュレーディンガーと同郷の物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンが物理学教授を務めていました。しかしボルツマンは、シュレーディンガーが入学する直前に自殺。後任を務めたのは、こちらも同郷のフリードリヒ・ハーゼノールでした。
シュレーディンガーは、ハーゼノールを通じてボルツマンの学説に強い感銘と影響を受けていました。理論物理学者を目指したのも、ボルツマンの影響が大きいとされています。後にシュレーディンガーはボルツマンについて、「ボルツマンの考えた道こそ科学における私の初恋と言ってもいい」と述べています。
エルヴィン・シュレーディンガーの後半生(シュレーディンガー方程式を導き出して、波動力学を生み出す)
1925年から1926年にかけて、シュレーディンガーはフランスの物理学者ルイ・ド・ブロイが発見した考え方をもとに、シュレーディンガー方程式を導き出しました。この方程式を使って、より大きな視点で物質の現象を捉えられる波動力学を提唱しました。波動力学は行列力学と数学的には同じものであることが証明され、量子力学の発展に大きく貢献しました。このことは、デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアの提唱した量子論の結果を完璧なものにしたともいえます。これらの発見は、物理学に大きな衝撃をもたらしました。
1927年、シュレーディンガーはフンボルト大学ベルリンにてドイツの物理学者マックス・プランクの後任として教授を務めました。しかし1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を掌握すると、彼は政府のユダヤ人への弾圧に反発してベルリン大学を辞職。その後はイギリスに渡ってオックスフォード大学のフェローとなります。同年、波動力学と行列力学とが数学的に同等であることをシュレーディンガーと独立に証明したポール・ディラックとともにノーベル物理学賞を受賞しました。
1934年、シュレーディンガーはアメリカへ渡り、プリンストン大学で講義を行いました。大学側からはシュレーディンガーに対して、永久的に在籍してほしいというオファーを送りましたが、シュレーディンガーはこれを拒否。その後はエディンバラ大学に向かう予定でしたが、ビザが遅れたことで断念し、1936年からオーストリアのグラーツ大学に教授として籍を置きました。
1935年、量子力学の不確実性を説明するために「シュレーディンガーの猫」という思考実験を提唱しました。箱の中に生きた猫と放射性物質であるラジウムとガイガーカウンター、そしてレバーを押すことで青酸ガスが発生する装置を入れたとき、箱を開けるまで中の猫が生きているのかどうかわからないというものです。
1937年、シュレーディンガーにはドイツ物理学会からマックス・プランク・メダルが授与されます。しかし翌1938年、オーストリア併合によってオーストリアがドイツに併合されると、シュレーディンガーはグラーツ大学の教授を辞めなくてはなりませんでした。少しの間、妻アンネマリとイタリアに亡命し、その後ベルギーに移住。ゲント大学の教授となりますが、第二次世界大戦の開戦が始まるとドイツとベルギーは敵対関係となったため、ここでも大学を離れることになります。最終的に、アイルランドに招かれたシュレーディンガーはダブリン高等研究所で研究を続けました。
第二次世界大戦の終結から10年の時が経ち、シュレーディンガーは定年退職しました。オーストリアに帰国すると、母校であるウィーン大学の教授に就任しました。6年間オーストリアで過ごし、最期は結核のために亡くなりました。
今回は、物理学の分野に多大な貢献をもたらしたエルヴィン・シュレーディンガーの生涯を振り返りました。「シュレーディンガーの猫」「シュレーディンガー方程式」などに名前を残しているため、物理学に詳しくなくても聞き覚えのある人もいるのではないでしょうか。彼の発見は、物理現象をより正確に捉えることを可能にしました。私たちが便利に暮らしている生活の背景には、こうした先人たちの知恵があることを忘れないようにしたいですね。