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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー ダイナマイトの発明家 アルフレッド・ノーベル(ダイナマイト開発で巨万の富を築き、その遺産で「ノーベル賞」を創設した偉大な発明家)

2024.05.07

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。爆薬の代表格として知られるダイナマイトは、炭鉱の掘削や兵器にも活用されています。その火力の高さから、爆発を用いる現場で多用されるようになりました。戦争が始まると、ダイナマイトは爆弾に使われるようになり、時代の流れとともにその需要を変えていったのです。そんなダイナマイトを最初に発明した人物で知られるのが、スウェーデンの化学者だったアルフレッド・ノーベルです。彼はダイナマイト開発で巨万の富を築き、その遺産で科学的な発明を讃える賞である「ノーベル賞」を創設しました。ノーベルの名前は、自然界には存在しない元素である「ノーベリウム」や、ノーベル自身が創設したディナミット・ノーベルやアクゾノーベルなど、現代の企業名にも名を残しています。今回はそんな、アルフレッド・ノーベルの生涯を振り返っていきましょう。

 

アルフレッド・ノーベルの前半生(父親の仕事を手伝いながら化学を学ぶ)

アルフレッド・ノーベルは、1801年スウェーデンのストックホルムで生まれました。建築家で発明家のイマヌエル・ノーベルとカロリナ・アンドリエッテ・ノーベルの4男として生まれたアルフレッドは、幼いころから工学に興味を持ち、特に爆発物に対して尋常ならざる関心を抱いていました。父親から爆発の基本原理を学んでいたことが、のちに爆発物の王として知られるダイナマイトの製造につながりました。

ある年、イマヌエルは事業に失敗。彼はこれを機に単身サンクトペテルブルクに赴き、機械や爆発物の製造業を始めました。この事業は軌道に乗り、大成功を納めました。やがて合板を発明し機雷製造にも乗り出すと、アルフレッドと家族はサンクトペテルブルクでともに過ごし始めました。元々は貧しい家庭でしたが、この成功をきっかけに生活にもゆとりが出始め、アルフレッドは家庭教師から学問を教えてもらえるようになりました。複数の家庭教師がつけられ、フランス語やドイツ語などのヨーロッパ圏内の言語を中心に、5か国語を流暢に話せるようになりました。学校にはストックホルムにいる間に通っていましたが、実際に通っていた期間は1841年から1842年にかけての間のみです。

アルフレッドの家庭教師をしていたのは、化学者のニコライ・ジーニンです。家庭教師から基本的な科学の知識を教わった後は、さらなる追求のためにパリへと足を運びます。そこではテオフィル=ジュール・ペルーズの科学講座を受講して、より高度な化学の知識を身につけました。翌年にはアメリカに渡って、4年間化学を学びます。アメリカでの修行が終わると父の事業を手伝い始め、1857年に最初の特許を出願しました。アルフレッドが最初に出願した特許は、ガスメーターについての特許だったといいます。

1853年、ロシア帝国がオスマン帝国に宣戦布告し、クリミア戦争が勃発しました。アルフレッドは兵器開発、特に機雷製造で各国に太いパイプを作り、多額の売上を残しました。しかし戦争が終わった途端に受注がストップし、さらに軍がそれまでの支払いを渋ったことによって事業は急激に逼迫。父ともども、再び破産への道を辿りました。イマヌエルは倒産した工場の経営を次男のルドヴィッグ・ノーベルに託し、アルフレッドと妻を連れてスウェーデンに帰国しました。その後ルドヴィッグは受け継いだ工場を再開して事業を発展させました。

 

アルフレッド・ノーベルの後半生(ダイナマイトを発明して大富豪になり、ノーベル賞を創設する)

アルフレッドはその後、爆発物の研究に精を出しました。特にニトログリセリンに関して、安全な製造方法と使用方法を確立するための研究を行いました。当時、アルフレッドはニトログリセリンという物質について知ってはいませんでした。彼がニトログリセリンのことを知ったのは、1855年になってからのことでした。

爆薬が完成すると、アルフレッドはサンクトペテルブルクで水中爆発実験を行いました。開発当初、この爆薬には狙い通りに爆発させるのが難しいという欠点がありました。アルフレッドはこの欠点を解決するために起爆装置を開発して、実験に臨みました。1862年の実験は成功し、翌年スウェーデンで特許を取得。1865年には雷管を設計し、安定した爆発方法の実現に成功しました。この爆薬はストックホルムの鉄道工事で使用を認められたものの、軍からは「危険すぎる」という理由で採用されませんでした。

1864年9月3日、爆発事故で弟エミール・ノーベルと5人の助手が死亡し、アルフレッド本人も怪我を負いました。この件をきっかけに、アルフレッドはさらにニトログリセリンの安定性を高める研究に動き出しました。そして完成したのが、「爆薬の王様」とも称されるダイナマイトです。

ダイナマイトはその安定性と使い勝手のよさから、非常に多くの場面で活用されるようになっていきます。アルフレッドは特許を取得し莫大な利益を得る権利を手にしました。しかしここに、シャフナーという軍人が現れ、アルフレッドの特許権を奪おうとする裁判を起こしました。アルフレッドはこの裁判に勝ったものの。シャフナーからの嫌がらせのような追求は続きました。アメリカ連邦議会ではニトログリセリンの使用で事故が起きた場合に責任はアルフレッドにあるとする法案が用意され、アルフレッドは泣く泣く軍事におけるニトログリセリンの使用権をシャフナーに譲渡しました。

アルフレッドの特許にまつわる競争は、晩年まで続きました。彼の莫大な利益を狙う人間は数多く存在し、その対応に追われる人生でした。1890年には、知人がノーベルの特許にほんのわずか変更を加えただけの特許をイギリスで取得します。これを受けて、アルフレッドは話し合いでの解決を希望しましたが、会社や弁護士の強い意向で訴訟を起こすことに。しかし1895年、最終的には敗訴となり、知人に特許が渡ることになってしまいます。

1891年、兄ルドヴィッグと母の死をきっかけに、長年居住していたパリを離れ、イタリアのサンモーレで暮らし始めます。

1895年、アルフレッドは持病の心臓病が悪化。自分の死期が近いことを悟ったアルフレッドは、ノーベル賞設立についての遺言状を執筆しました。この遺言状は、財産の大部分を賞の設立に当てること、国籍の区別なく毎年歴史的な発明・発見をした人物にノーベル賞を授与するという内容を示したものです。しかしこの遺産の相続をめぐっては、兄弟やその子たちがトラブルを頻発ししたため、相続執行人は苦労に苛まされました。またアルフレッド本人も過去の経験から弁護士を信用しておらず、直筆で自分だけで遺言状を書いたために遺書の内容には矛盾点が多く、このことも相続執行人を苦労させる理由の一つとなりました。

ニトログリセリンは心臓病の治療にも転用できる物質であり、アルフレッドの医師もニトログリセリンを使うことを勧めましたが、本人はこれを拒否しました。脳溢血で倒れる直前まで、アルフレッドは友人に手紙を書いていたといいます。脳溢血の3日後、アルフレッドは息を引き取りました。

今回は、ダイナマイトの発明やノーベル賞の設立で知られるアルフレッド・ノーベルの生涯を振り返りました。偉大な発明を残したものの、周りの人間の悪意に振り回される人生でもありました。ノーベルの発明は科学を大きく進歩させ、またノーベル賞の創設で偉大な発見をした人物を平等に評価する土壌ができあがりました。有名な偉人でも、その歴史をたどると意外と知らない話が隠れているものです。皆さんが知っているような人物の生涯をたまに振り返ってみるのも面白いのではないでしょうか。

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