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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 陰極線の研究に使われた「レーナルト菅」発明家 フィリップ・レーナルト(陰極線の研究でノーベル物理学賞を受賞した天才発明家)

2024.04.26

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。陰極線は、電子線や電子ビームとも呼ばれる物質です。1869年、真空管に電極を入れて電圧をかけると、陰極の反対側にある容器内壁が発光する、という現象がドイツの物理学者だったヴィルヘルム・ヒットルフによって発見されました。この現象は、陰極線によって発生するものです。この目に見えない不思議な光線は、オイゲン・ゴルトシュタインによって陰極線と名付けられたのです。陰極線はさまざまな科学者によって研究され、物理学や科学の分野で活用されています。ドイツの物理学者フィリップ・レーナルトも、陰極線の研究に関わった人物の1人です。彼は1905年に陰極線の研究でノーベル物理学賞を受賞し、人類の発展に大きく貢献しました。輝かしい功績とは裏腹に、反ユダヤ主義を抱え激烈なナショナリズム思想を抱いていたことでも知られており、悪名も広く知れ渡っています。今回はそんなフィリップ・レーナルトの生涯を振り返っていきましょう。

 

フィリップ・レーナルトの前半生(物理学を学んでハイデルベルク大学の研究所長に出世する)

フィリップ・レーナルトは1862年、オーストリア帝国のハンガリー王国プレスブルク/ポジョニで生まれました。ワインの商人だった両親のもとに生まれ、商売の基礎を幼いころから身につけていきました。幅広く勉強を行い、ハンガリー語を学ぶために訪れた場所で人格形成に大きな影響を受けました。レーナルトの若い頃は、熱心なマジャル人国家主義を掲げていました。ハンガリー語をこよなく愛しており、ハンガリー地方にドイツ風の名前をつけることには激しく反対しました。1880年、レーナルトはウィーンとブダペストに行き、物理学と科学を学びました。その後はブダペストを離れプレスブルグに戻り、大学で助手の仕事をしようとしましたが、断られました。翌年、レーナルトはハイデルベルクに引越し、ロベルト・ブンゼンやヘルマン・ヘルツホルムなどの学者たちに師事し、1886年に博士号を取得しました。1887年には再びブダペストを訪れ、エトヴェシュ・ロラーンドの助手として働きました。その後はアーヘン大学、ボン大学、ヴロツワフ大学、ハイデルベルク大学、キール大学などを転々とし、1907年にはハイデルベルク大学に創設されたフィリップ・レーナルト研究所の所長に就任しました。1905年にはスウェーデン王立科学アカデミーの会員、1907年にはハンガリー科学アカデミーの会員にも選出され、高い技術と豊富な知識を評価されました。

 

フィリップ・レーナルトの後半生(陰極線の研究で画期的な成果を出す)

レーナルトは、燐光やルミネセンス、炎の伝導率などの研究を行いました。その中でもっとも大きな功績は、1888年から開始した陰極線の研究です。レーナルトは、真空管のなかに小さな金属箔の窓を設置するアイデアを思いつきました。圧力差に耐えうる厚さと陰極線が通過できる程度の薄さを両立しました。それまでの陰極線は、ガラス管を真空状態にしなければならないという性質状、ガラス管の中から陰極線を出して直接研究することは難しいという問題を抱えていました。レーナルト管の発明によって陰極線をガラス管の外に出すことに成功し、研究の幅を大きく広げました。

レーナルトは、陰極線の吸収の度合いが通過する物質の密度と比例することに気づきました。加えて、通常の空気中では数インチしか通過できないことから、小さい粒子が空気中の分子に衝突することで散乱していることを導き出しました。レーナルトの仮定では陰極線はマイナス極に帯電したエネルギー粒子の流れであり、これを「量子」と名付けました。のちに陰極線は「電子」と呼ばれるようになり、多くの場面で活用されていきます。

レーナルトは大きな功績を持ちながら、悪名の方でも有名人となっていました。有名なエピソードとして、レントゲンがX線を発見した際にレーナルト菅を使っていたにもかかわらず、レーナルトの名前を引用しなかったことに激怒したことが挙げられます。

レーナルトは、熱心なドイツ国家主義の信奉者でした。イギリスの物理学者に対しては露骨な嫌悪感を表し、軽蔑していました。電流の単位にフランスの物理学者アンドレ=マリ・アンペールにちなんだ「アンペア」という名前がつけられた際には反感を示し、ハイデルベルクの研究所にある全ての機器の単位を物理学者ヴィルヘルム・ヴェーバーの名にちなんだ単位である「ヴェーバー」に書き換えさせたというエピソードも残されています。

その差別的な思想も影響し、早期からドイツ労働者党(ナチ党)の一員となりました。ナチス・ドイツ時代には「ドイツ物理学」を提唱し、アインシュタインの相対性理論を批判しました。のちにレーナルトはアドルフ・ヒトラーの科学顧問として、ナチスのドイツ物理学部門の代表となりました。

非科学的な「ドイツ物理学」を提唱し、「ユダヤ物理学」は人を惑わす間違った学問だとして無視しました。これは主にアルベルト・アインシュタインの相対性理論を指しての言です。アドルフ・ヒトラーの科学顧問として、ナチスのドイツ物理学部門の代表となりました。

1931年、レーナルトはハイデルベルク大学の理論物理学教授職を引退し、名誉教授に就任しました。1945年、第二次世界大戦での敗戦によりドイツは連合国に占領され、レーナルトは名誉教授としての職を失いました。2年後、メッセルハウゼンでその生涯を終えました。

今回は、陰極線の研究に使われた「レーナルト菅」の発明者であるフィリップ・レーナルトの生涯を振り返りました。陰極線の研究ではノーベル物理学賞を受賞し、人類の科学的な発展に大きく貢献しました。一方で強烈な差別主義者であり、その人間性には批判も多く集められています。叡智と残虐性が同居する天才の生涯は、常人には理解できない部分も少なくなかったでしょう。とはいえ彼が残した功績は非常に大きなものだったことは変わらない事実です。

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