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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 潜水艦の発明家 ヴィルヘルム・バウアー(ドイツとロシアで潜水艦を発明するが、どちらも沈没してしまって実用化に失敗した不運な発明家)

2024.02.09

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。潜水艦は、戦時中における海洋の封鎖を突破するための手段として発明されました。ドイツ軍が第一次世界大戦中に使っていた「ブラントタオハー号」もそのひとつです。当時、封鎖破りに使われていたのは爆発物を積載した「火船」で敵船に体当たりするという方法が主流でした。ブラントタオハー号も同様、敵船の下に潜り込んで機雷を取り付け、安全な距離まで離れてから起爆するという構想でした。このブラントタオハー号を発明したのが、ドイツの発明家だったヴィルヘルム・バウアーです。長い間ドイツ軍に従軍したバウアーの発明は、ドイツの軍事力強化に大きく貢献しました。今回はそんな、ヴィルヘルム・バウアーの生涯を振り返っていきましょう。

ヴィルヘルム・バウアーの前半生(ドイツで潜水艦「ブラントタオハー号」を発明するが試験航海で沈没する)

ヴィルヘルム・バウアーは1833年、ドイツ連邦のバイエルン王国で生まれました。父親は現役の軍人であり、軍曹の地位を獲得していました。国家のために行動するという価値観が幼いころから根づいていたバウアーは、木工旋盤工として修行を積んだ後、ドイツ軍に入隊しました。最初は火器の整備として入り、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に従軍しました。

当時、ドイツは周辺国と抗争状態にありました。ドイツの北海岸はデンマーク海軍によって封鎖され、他国への侵入経路が制限されていました。この状態を目にしたバウアーは、すぐさま封鎖を突破するためのアイデアを思いつきました。それは「潜水艦」という方法でした。敵船の下に潜り込み、攻撃を仕掛けられれば軍の戦力を削ぐことなく、敵戦力を減らすことができます。バウアーは潜水艦を開発するため、水理学と造船技術を学び始めました。しかし研究の途中でドイツ連邦はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国から徹底することを決め、敗戦という形になりました。バウアーは潜水艦を作ることを諦めきれず、ドイツ軍を除隊してシュレースヴィヒ=ホルシュタインの軍隊に入ることを決めました。

新兵器の開発は、主に軍の中枢にいる人間が行う仕事です。バウアーのような一兵卒には、兵器開発に関わる権限を与えられませんでした。独自に兵器を開発するとしても、軍からの支援を受けられず、バウアーは資金繰りに苦しみました。しかし人脈に恵まれ、シーメンス社を創設したヴェルナー・フォン・ジーメンスをはじめ、数人からの援助を受けることに成功します。こうして、どうにか潜水艦の実用模型を試作する資金を作ることができました。この試作は成功し、ブラントタオハー号は完成に至りました。バウアーはドイツ軍に技術を売り込み、フルサイズの潜水艦を作るための資金を与えられました。しかし、軍の上層部はバウアーの計画に反対していました。予算を抑えたい上層部は、バウアーに設計の変更を強制します。その結果、本来の構想とはかけ離れた設計となってしまい、実際に完成した潜水艦は不安定で危険性の高いものとなりました。船殻の厚さと排水ポンプの性能も大幅に下がり、十分な稼働ができない状態のまま試験を行うことになります。

ブラントタオハー号の製作にあたったのは、アウグスト・ホーヴァルトの造船会社です。バウアーの考案した設計を十分に再現できる適切な動力システムが手に入らなかったため、人的駆動システムが採用されました。水夫2人が手と足でクランクを回し、3人目の乗組員である船長が船尾で操舵などの操作を行いました。ターゲットとなる敵船の下に到達した際、機雷を取り付けるのも船長の仕事でした。

試験を行った結果、やはりさまざまな部分に不具合が見られ、バウアーは改良を施すことを軍に希望しましたが、その申し出は却下され公開試験を行うように命令されました。結果、公開試験は失敗します。30フィートの深度に達した後、ブラントタオハー号は船尾から沈み始めました。薄い外壁は水圧に耐え切れず、崩壊し始めました。貧弱な排水ポンプでは浸水に対応できず、さらに転覆によってスクリューも損傷。ブラントタオハー号はキール港の海底に向かって、ゆっくりと沈んでいきました。バウアーと乗員たちは海底で6時間ほど持ちこたえ、浸水によって船内の気圧が上がりハッチを開けるようになると潜水艦を捨てて命からがら脱出しました。

ヴィルヘルム・バウアーの後半生(ロシアで潜水艦「ゼートイフェル」を発明するが再び沈没する)

ブラントタオハー号の失敗後、バウアーはすぐに次の潜水艦を設計し始めました。より大型で、改良型の潜水艦を構想し、軍に提案しました。しかし前回の失敗に懲りたシュレスヴィヒ=ホルシュタイン政府は援助を拒否し、バウアーは再び資金に苦しみます。

バウアーはシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公国を離れ、スポンサーを探し続けました。オーストリア=ハンガリー帝国やイギリス、フランスなど各国を回りましたが、良縁には出会えませんでした。しかしロシアを訪れたとき、太公に接触する機会がありました。大きな支援を受けることができたバウアーはサンクトペテルブルクで第二の潜水艦であるゼートイフェルを設計しました。ブラントタオハー号よりも大型で、改良を重ねたゼートイフェルは優秀な設計であることが証明されましたが、134回目の潜水時に海底の砂に座礁し、バウアーの船は再び沈没することになります。

二度目の失敗の後、バウアーはすぐにロシアから出国しました。潜水艦を引き上げる気球の発明などさまざまな研究を行いましたが、いずれも成功の日の目を見ることはありませんでした。結局大きな功績を残せないまま、バウアーはミュンヘンでその生涯を終えました。

今回は、ドイツの技術者として活動したヴィルヘルム・バウアーの生涯を振り返りました。軍からの支援を受けられず、十分な設計が実現できなかった悔しさは想像を絶するものだったことでしょう。失意のままこの世を去ったバウアーですが、その後の造船において彼の技術は新しいアイデアを得るためのヒントとして参考にされています。失敗に終わった歴史からも、学べることはたくさんあります。偉大な功績ではなくとも、ちょっと興味を持って調べてみることが大切なのかもしれませんね。

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