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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー プログラム制御式コンピュータ+高水準プログラミング言語の発明家 コンラート・ツーゼ(シーメンス社に買収されたコンピュータメーカーのZuse KGの創業者)

2024.01.22

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。人間にはできない演算を可能にするコンピュータ、そしてそれを動かすプログラミング言語など、ITの技術にも深い歴史があります。コンピュータの起源は、1941年に本格的に稼働した「Zuse Z3」だと言われています。Z3は世界初の完全動作するプログラム制御式コンピュータとして、世界中の人々を驚かせました。このZ3を発明した人物が、ドイツの科学者であるコンラート・ツーゼです。彼はZ3の発明のほか、「S2」というプロセス制御コンピュータやコンピュータ企業の設立、さらに高水準のプログラミング言語である「プランカルキュール」の発明など、様々な実績を残しました。これらの業績はいずれも世界初のことであり、ITの歴史を作った傑物として知られています。今回はそんな、コンラート・ツーゼの生涯を振り返っていきましょう。

コンラート・ツーゼの前半生(航空機工場で設計技師として働きながらコンピュータを発明)

コンラート・ツーゼは、1910年6月22日、ドイツのベルリンで生まれました。ツーゼが2歳のときに家族は東プロイセンのブラウンスベルクに移住し、郵便局員として働く父のもとで育ちました。ここでツーゼはイエズス会系の学校に入学し、教養を身につけていきます。1923年になると、コンラート一家はホイエルスヴェルダへと転居しました。1928年、ツーゼはアビトゥーアに合格し、大学入学資格を獲得しました。

ツーゼは、王立シャルロッテンブルク工科大学(現在のベルリン工科大学)に入学しました。工学と建築学を学ぶために選んだ大学でしたが、講義は退屈なものでした。ツーゼにとってあまり興味のある学問ではなかったのです。彼は土木工学を専攻し、1935年に卒業しました。大学卒業後は芸術分野の才能を活かして、広告デザインの職に就きました。その後、ベルリン近郊のシェーネフェルトにあるヘンシェルの航空機工場で設計技師として働くことに。しかし、ここでの仕事はツーゼにとって大きなストレスとなりました。設計の際の計算をすべて手で行わなければならず、苦痛を感じるようになったのです。この経験から、ツーゼは機械で計算ができたらどれだけ楽だろう、そう感じるようになったのです。

仕事のストレスからニーズを見つけ出したツーゼは、1936年、両親の家でZ1という機械を制作しました。簡単なプログラミングができるこの機械の発明で、特許を2件申請しました。Z1は1938年に一応完成しましたが、3万点もの金属部品の精度が不足しており、完全動作するには至りませんでした。やがて第二次世界大戦が勃発し、戦火の中でZ1とオリジナル製図は破壊されてしまいます。

コンラート・ツーゼの後半生(コンピューターメーカーを起業するが経済的には成功せずに終わる)

第二次世界大戦以前、ツーゼは他の計算機科学者・数学者とのつながりを一切持たず、独自にコンピュータを開発していました。第二次世界大戦が始まると孤立に拍車がかかり、業界の最新情報に触れられない状態が続きました。1939年、ツーゼは兵役につきました。そこで軍から与えられた物資を使って、Z1の改良版であるZ2を完成させました。1941年にはマシンの製造会社Zuse Apparatebau(ツーゼ装置エンジニアリング)を立ち上げました。さらに同年、Z2を改良してZ3を完成させました。

しかしこの会社は、1945年の連合国による空襲で破壊されてしまいます。Z1、Z2、Z3を全て失いますが、制作中のZ4は安全な場所に移動していたため、難を逃れました。

1940年、ドイツ政府はツーゼに資金提供を行い、滑空爆弾の製造に利用しました。無線操縦式の滑空爆弾の翼について、航空力学的な計算を行うための計算機を発明し、軍事力強化に貢献しました。S2はアナログ・デジタル変換器を搭載し、プログラム制御もできたことから、世界初のプロセス制御コンピュータと言われています。

Z4の開発中、ツーゼは機械語によるプログラミングは複雑すぎると考えていました。戦争末期にベルリンからシュヴァーベンに疎開したとき、ハードウェアの作業ができなくなったため、1945年から46年にかけて世界初の高水準プログラミング言語プランカルキュールを設計しました。その一部は1948年に発表していますが、全体像を公表したのは1972年のことです。これは理論的な部分での業績であり、生きている間には実装されることもなく、後のプログラミング言語にも直接的な影響を与えることはありませんでした。

1949年、別会社 Zuse KG をハウネタール=ノイキルヒェンに設立。1957年にはバート・ヘルスフェルトに移転しています。1950年9月にZ4 が完成すると、マシンはスイスのチューリッヒ工科大学に納入されました。当時、これがヨーロッパ大陸で動作している唯一のコンピュータであり、世界で2番目に販売されたコンピュータでもあります。1番目はBINACですが、BINACは納入後も完全動作したことはありません。1967年までに Zuse KG は251台のコンピュータを販売しましたが、財政問題によってシーメンス社に身売りすることとなりました。

1987年から1989年にかけて、ツーゼは心臓発作なども経験しながらZ1を再生しました。最終的には3万個の部品を使い、80万ドイツマルクを費やしました。組み立て作業は4人がかりでした。引退後、ツーゼは趣味の絵画に没頭しました。1995年、ドイツのフルダ近郊のヒューンフェルトでその生涯を終えました。

今回は、ドイツの科学者であるコンラート・ツーゼの生涯を振り返りました。コンピュータの起源とされるZ3を発明したことや高水準のプログラミング言語を開発したツーゼですが、その歴史を知る人はあまり多くないでしょう。発展したIT科学の裏に、ひっそりと存在した歴史を知ることもまた一興ですね。

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