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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー イオン液体の発明家 パウル・ヴァルデン(ロシアやラトビア、ドイツで活躍した化学者)

2023.12.22

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。イオン液体は、真空状態で加熱しても揮発しないという特徴を持っています。この作用を利用して、電池や潤滑剤、抗菌剤などの開発が進められてきました。そんなイオン液体の祖先は、硝酸エチルアンモニウムだと言われています。これを発見した人物こそ、化学者としてロシアやラトビア、ドイツで活躍したパウル・ヴァルデンです。立体化学や化学史に関する研究を行ったことで知られています。今回はそんな、パウル・ヴァルデンの生涯を振り返っていきましょう。

パウル・ヴァルデンの前半生(化学の分野で数々の研究成果を上げる)

パウル・ヴァルデンは、ラトビアの農家に生まれました。幼くして両親が他界し、一家は貧乏な暮らしを強いられましたが、リガに住む2人の兄が経済的な支援をしてくれたこともあり、ヴァルデンも教育を受けることができました。ヴァルデンには学術的な才能があり、ツェーシスの地区学校やリガ工科高校など、各年代の学校で優秀な成績を修めました。高校卒業後はリガ工科大学に入学し、化学の研究を熱心に行うようになります。1886年には硝酸と亜硝酸の試薬による反応の違いを研究・発表し、色の変化を用いて硝酸を見つける方法を確立しました。1887年にはロシアの物理化学協会の会員に任命されます。さらにこの当時ヴィルヘルム・オストヴァルトとの共同研究を行うようになり、科学者としての知見も身につけていきました。2人の研究は1887年に発表されたもので、食塩の水溶液が持つ電気伝導率が分子量にどれほど依存するのかを研究したもので、多くの化学者・科学者から高い評価を獲得しました。

1888年には化学工学の学位を取得して、大学を卒業。その後は教授の助手として化学科で研究を続けました。教授の指導のもと、行ったのが、「立体化学のハンドブック」という雑誌の編集です。このハンドブックを作成するためには、多くの化学合成と特性評価を行う必要がありました。結果、立体化学のみに関する57のジャーナル論文が作成され、1899年から1900年にロシア及び外国ジャーナルに57のアーティクルが掲載されました。

また、物理化学の分野でも研究を続け、1899年には非水溶媒のイオン化力が誘電率に正比例することを確立しました。1890年と1891年の夏休みにライプツィヒ大学のオストヴァルトを訪ね、1891年9月にそこで特定の有機酸の親和性の値に関する修士号を取得しました。オストヴァルトは個人講師としてライプツィヒに留まることを提案しましが、ヴァルデンはリガでさらにキャリアを積むためにこれを辞退しました。

1892年、ヴァルデンは物理化学の助教授に任命されました。翌年、堆積層の浸透圧現象に関する博士号を取得し、1894年9月にリガ工科大学で分析化学および物理化学の教授となりました。1911年までそこで研究を行い、1902年から1905年の間は学長を務めました。

パウル・ヴァルデンの後半生(リガ工科大学でイオン液体を発明する)

ヴァルデンの大きな功績は、水素に関する反応を発見したことです。後に「ヴァルデン反応」とも呼ばれるようになったこの反応は、化学研究に大きな衝撃をもたらす大発見でした。その後は非水溶液の電気化学に大きな関心を抱くようになり、1902年には無機・有機溶媒の自己解離理論を提唱したことでも知られています。立体化学、そして非水溶液の研究でヴァルデンは世界中に名を知られるようになりました。

1896年、リガ工科大学は公用語をロシア語へと変更しました。それまではドイツ語が公用語であり、ロシア語の授業はヴァルデンが受け持ったもののみでした。ロシア語を公用語とすることで、ロシア政府から助成金を受け取り、卒業生がロシア国内で地位を確立することを目的としたものでした。ヴァルデンはオストヴァルトと手を組み、多くの共同研究を行いました。1911から1915年の間に14個もの非水溶液の電気化学に関する論文を発表し、中でも1914年に発表した融点12℃の硝酸エチルアンモニウムという物質は初の室内イオンの発見として歴史に残されました。

1915年以降は第一次世界大戦の勃発やロシアの政治的な低迷、十月革命などによって非常に厳しい暮らしを強いられました。生活のために研究活動を減らし、教育と管理業務を行うことで科学的な地位を保ちました。ラトビアでも政情不安の状況になったため、ドイツに移住することを決めました。ロシアを離れた後も彼の人気は衰えず、1927年にはロシア科学アカデミーの外国人会員に選出されるほどでした。

晩年は化学史の研究に没頭し、1万冊以上の蔵書を集めました。しかしこれらの蔵書は1942年に行われたイギリス軍の空爆により、家もろとも破壊されてしまいます。その後はベルリン、フランクフルト・アム・マインと移住し、地元の大学で化学史の客員教授を務めました。第二次世界大戦が終わるとフランス占領地域で暮らし、ソ連の占領下にあるロストック大学をクビになり、収入の柱を失いました。それからはドイツの化学者たちから集めた年金で細々と暮らし、テュービンゲンでたまに講義をしたり、回想録を書いたりして老後を過ごしました。1957年、93歳で大往生を遂げました。

今回は、ドイツ・ラトビア・ロシアで活躍した化学者のパウル・ヴァルデンの生涯を振り返りました。最初のイオン液体である硝酸エチルアンモニウムを発見し、化学で数々の研究を行ったヴァルデンは人類に多大な貢献を果たしました。第一次・第二次世界対戦の両方を経験した波乱万丈な人生ながら、93歳で寿命をまっとうできたことは素晴らしいことですね。

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