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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 活版印刷の発明家 ヨハネス・グーテンベルク(中世ヨーロッパのルネサンス期に、三大発明のひとつに数えられる活版印刷を発明した偉大な発明家)

2023.11.17

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。中世ヨーロッパのルネサンス期において、活版印刷は三大発明のひとつに数えられる技術となりました。元来は中国が起源のものでしたが、ヨーロッパに伝来したあと改良・実用化が盛んになり、社会的な革命をもたらしました。ヨーロッパはそれまでアジアやアラブ地域の国々よりも技術的に遅れをとっていましたが、三大発明によってその状況が逆転し、ヨーロッパが世界を牽引する状態にまで達しました。この活版印刷の生みの親と言われているのが、ドイツの金細工師をしていたヨハネス・グーテンベルクです。活版印刷により大量の本を生産できるようになり、消費者・業者のどちらも役立つ社会を作りました。今回はそんなヨハネス・グーテンべルクの生涯を振り返っていきましょう。

ヨハネス・グーテンベルクの前半生(金属加工職人として活躍するが事業に失敗して借金まみれになる)

グーテンベルクは、マインツの上流階級の商人だった父親とその2番目の妻との間に生まれました。生年は不明ですが、いくつかの資料によれば1398年ごろとされています。父親は教会の造幣所で働いており、グーテンベルクはその姿を見て育ちました。当時、マインツでは身分の違う人々同士での争いが絶えませんでした。グーテンベルク家も貴族の立場であり、市民と衝突したことが何度もありました。1411年以降は一家総出でマインツを離れることになり、母が相続していたエルトヴィレ・アム・ラインへと逃れることになります。それから15年間は記録が残っておらず、正確な情報はわかりません。しかし一部、1419年に父のフリーレが死去した際の遺産相続について、記録が残されていました。

グーテンベルク一家がマインツに戻れたのは、1430年になってのことでした。およそ20年間もの期間を経て、グーテンベルクは金属加工の職人として活躍しました。職人としての評価も高く、人々の信頼も集めていましたが、「母方の祖父が貴族でない」という理由で貨幣鋳造業ギルドへの登録は認められませんでした。1433年に母が逝去したあとはしばらくマインツに在住していましたが、兄姉との関係性が悪くなったことが原因で1434年以降はシュトラースブルクへと移住して過ごしました。

グーテンベルクは、1439年ごろからアーヘンの巡礼者に金属鏡を売る事業のために出資を募りました。この市ではカール大帝の遺品を展示するという計画があり、多くの参加者が集まる見込みでした。しかし、この事業は大洪水によって延期しなくてはならず、当初の計画よりも資金を集められませんでした。出資者から募った資金は開催のために使い切ってしまっており、返済ができなくなってしまったのです。しかしこのときすでに、グーテンベルクは活版印刷のアイデアを閃いていました。出資者を納得させるため、「秘密を共有する」という約束をして、出資者を宥めました。

ヨハネス・グーテンベルクの後半生(活版印刷による聖書の印刷事業で大成功するが共同経営者に裏切られて苦汁を舐める)

グーテンベルクは、1450年までに印刷所の運営を開始しました。ドイツ語の詩を印刷して、初めて活版印刷に成功しました。この技術は物珍しさから貴族の目にも留まり、貸金業で潤沢な資金を集めていたヨハン・フストから事業資金を受け取り、2人は共同事業者として新しい事業を立ち上げました。

2人はグーテンベルクの遠い親戚が所有する建物を印刷所として、事業を推し進めていきました。フストは資金を提供し、グーテンベルクは技術で世の中に価値を生み出していきました。目玉となる事業は聖書の印刷で、約180万部を印刷しました。

順調のように思える事業ですが、グーテンベルクとフストの決裂によって事業は終わりを迎えます。聖書印刷と前後し、フストは事業のために貸した資金を別の資金に使われ、しかも返済する意思がないとして訴訟を起こしたのです。裁判が行われ、グーテンベルクは敗訴。しかしフストが提示する金額に足りるだけの資金は持っておらず、財産のほとんどをフストに渡すことになります。

グーテンベルクはこうした状況も意に介さず、再び資金を集めて印刷事業を続けました。グーテンベルクを追い出したフストは世界で初めて奥付に印刷日・印刷者名を記載した人物として歴史に名を残しました。

1462年になると、マインツで対立する司教の間で争いが勃発。対立側の陣営に襲われ、グーテンベルクは自宅と印刷所を失いました。年老いたグーテンベルクはエルトフィレ・アム・ラインに逃れ、余生を送るようになります。印刷技術は画期的なものであり、アドルフ司教の興味を惹きました。そして彼の宮廷に従者として召抱えられ、暮らすのに困らないほどの大金と大量の穀物やワインを贈られ、晩年を豊かに過ごしました。それから3年後、グーテンベルクは静かに亡くなりました。彼の墓はマインツに建てられましたが、教会と墓地はすでに取り壊され、現在はもう見ることができません。

グーテンベルクが発明した活版印刷は、その後のヨーロッパ史に多大な影響をもたらしました。その最初の人物として称えられ、現代にも名を残しています。

今回は活版印刷の発明者、ヨハネス・グーテンベルクの生涯を振り返りました。貴族の身分でありながら、身分の違いによって苦しめられた人生でしたが、技術の発明に関していえば他の誰よりも優れた功績を残したと言えるでしょう。有名な発明にも、意外な歴史が隠されているものです。いろいろなものに興味を持って調べてみると、新しい発見に出会えますよ。

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