私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。医療技術の発展にも、こうした進化の軌跡が見られます。今回取り上げるテーマは、肺や心臓の音を聴きとり疾患を判断する「聴診器」です。聴診器の登場によって医療における診断の正確率をあげたほか、聴診での診断方法を見出したこともラエンネックの功績とされています。今回はそんな、ルネ・ラエンネックの生涯を振り返っていきましょう。
ルネ・ラエンネックの前半生(父親に医師になることを反対されるが医師になって聴診器を発明する)
ルネ・ラエンネックは、1781年にブルターニュ半島カンペールで生まれました。6歳ころに母親を亡くし、聖職者であった大叔父に引き取られました。しばらく大叔父のもとで生活をしていましたが、当時大学の医学部で教授をしていた叔父を頼り、12歳でナントへ移り住みました。英語やドイツ語を学び、優秀な成績を収めたラエンネックは、やがて叔父から医学の指導を受けるようになります。ラエンネックは医師である叔父に憧れ、自身も医師になりたいと思うようになりました。
しかし、ラエンネックの父親は法律家として活動していました。自分の家業を継いでほしい父親はラエンネックが医師になることを認めず、ラエンネックは失意のままフランス国内を巡る旅へと旅立ちました。旅先で出会った人たちと踊り、ギリシア語や詩歌を学ぶ旅はラエンネックに自分を見つめ直す時間を与えました。しばらく旅人として過ごしていたラエンネックは、1799年に再び医師を志すようになります。決意したラエンネックはパリを訪れ、ギヨーム・デュピュイトランやジャン=ニコラ・コルヴィサールをはじめとした高明な医師の元で修行を積みました。この時、音を利用した診察方法について教わり、医学の基礎を叩き込まれました。
その後ラエンネックは独立し、医師としての道を歩み始めました。聴診器が発明されたのは、とある女性の患者を診察した時のことです。当時のことはラエンネックが執筆した論文の中に記載されています。
曰く、「1816年、私は心臓の病気の一般的症状に悩まされている若い女性を診察した。その症例では脂肪が付きすぎていて打診や触診ではほとんど何もわからなかった。前述したもうひとつの診察法(直接聴診)は、患者の年齢や性別によっては実施が難しい。そこで私は音響についての単純でよく知られた事実を思い出した。……すなわち、木片の一端に耳を押し当てると、もう一端をピンで引っかいた音がよく聞こえるということである。そこで私は紙を丸めて筒状にし、一端を心臓のあたりに押し当て、もう一端を私の耳にあてた。すると心臓の鼓動が耳を直接押し当てたときよりはっきり聞こえた。」とのことです。
聴診器を使うことで、耳を患者の胸に押し当てるよりも正確に心音を聞き取ることができることが証明されました。女性患者の場合は直接胸部に触れる必要がない、ということも大きな発見です。ラエンネックはさらに、聴診器で聞こえる音の変化に分類を作りました。現代でも利用される水泡音、類鼾音、捻髪音、山羊音はこのとき正確な分類として生まれました。
ルネ・ラエンネックの後半生(結核の研究をしているうちに結核で亡くなる)
ラエンネックの医学への貢献としては、聴診器の発明のほかに腹膜炎と肝硬変の解明にも寄与しています。症状自体は以前から知られていましたが、病態を解明し主な治療方法を発見したのはラエンネックが初めてです。また、悪性黒色腫の命名もラエンネックによるものです。
さらに、ラエンネックは結核の研究にも力を入れていました。母親を亡くした原因が結核だったため、個人的な思いも強かったのではないでしょうか。しかし有効な治療法が見つかることはないまま、ラエンネック自身も結核に罹患してしまいます。彼の結核が発見されたのは、自身が発明した聴診器で甥によって診断されたものでした。
医学において数々の功績を残したルネ・ラエンネックは、1826年、結核のために亡くなりました。彼の功績は現代でも称えられています。
今回は、聴診器を発明したルネ・ラエンネックの生涯を振り返りました。医師を志すものの父親の反対に遭い、旅に出たこともありましたが、やはり諦めることができず医師を志したのは大きな転換点だったのではないでしょうか。結果として聴診器の発明や腹膜炎、肝硬変などの解明にも貢献し、医学の発展に多大な影響をもたらしました。医学の歴史はこれまで人類が積み上げてきたことの集大成とも言える領域です。どんな歴史を辿ってきたのかを知ることは、とても心惹かれるものですね。