【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】飛行機の発明家 ライト兄弟(特許紛争に苦しんで経済的な成功を得られなかった天才兄弟)
2022.12.09
SKIP
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。私たちが日本国内の遠方に移動する場合や海外渡航においては飛行機を利用することにより、素早く快適に移動することができます。このように私たちの時間距離を大きく短縮してくれたのが飛行機の発明でした。20世紀初期にアメリカ合衆国出身のライト兄弟(Wright Brothers)によって動力飛行機が発明され、彼らは世界初の飛行機パイロットとなりました。その後飛行機は世界中へと普及し、超高速移動を可能にしたことで世界中の産業の発展に貢献しました。日本においては島国ということもあり、飛行機を利用せざるを得ない場面も多く非常に恩恵を受けている地域だともいえるでしょう。ライト兄弟は世界に大きな影響を与えたということで、LIFE誌による1999年の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれました。そこで今回は、飛行機を発明し、世界で初の飛行機パイロットとなったアメリカ人発明家兄弟のライト兄弟の生涯を振り返っていきます。
ライト兄弟の生涯(世界初有人飛行実験の成功と当時の時代背景)
ライト兄弟の兄ウィルバー・ライト(Wilbur Wright)は1867年(慶応2年)、アメリカ合衆国インディアナ州の東部に位置する小さな村ミルビルでライト家の3男として誕生しました。弟のオーヴィル・ライト(Orville Wright)は、1871年(明治3年)、アメリカ合衆国オハイオ州のデイトンでライト家の4男として誕生しました。ライト家には2人のほかに長男のルクラン、次男のローリン、妹のキャサリンがいました。また、母のスーザンは結核を患ってしまい、1888年(明治21年)に亡くなってしまいました。
この頃、長距離移動の手段として存在していたのが蒸気機関車や車、海や川を渡る際の蒸気船でした。また、空を飛行するものとしては、モンゴルフィエ兄弟(世界初の有人飛行を実現)による熱気球の原理を利用した飛行船がありました。とはいえ、当時はまだ重い金属の塊である動力飛行機は開発されていませんでした。
また、数多の研究者により飛行機の研究は進められていました。たとえば、ジョージ・ケイリー(イギリスの工学者であり航空学の父とも呼ばれている)のグライダーの原理をもとにした研究などがありました。しかし、彼らは動力飛行を可能とする理論を確立するまでには至っていませんでした。
1896年(明治29年)にオットー・リリエンタールの事故が発生しました。彼は自身が設計したグライダーの飛行実験を2,000回以上しており、航空工学を大きく発展させた人物として知られています。彼がいつものようにグライダーの飛行実験をしている最中に、墜落し事故死してしまいました。ライト兄弟にとってもこの事故が大きな衝撃であり、航空機を完成させることを本格的に考えさせるきっかけとなったそうです。
ライト兄弟は自転車店を経営して集めた資金を飛行機研究費に当てることとしました。彼らは飛行実験において、科学的観点から飛行のメカニズム完全解明を目指し研究を重ねました。そして技術工学的な観点からも徹底しており、実験データを参考に複数のグライダーを製作し、ひとつずつ問題点を明らかにしていきました。数多くのグライダー飛行実験を重ねたことで有名なリリエンタールよりもはるかに数をこなし、安定した飛行技術も確実に自分たちのものとしてきました。
ライト兄弟は非常に計画的に研究を行い、グライダーの操縦技術を完璧なものにしてから、動力を追加する流れだったそうです。また、グライダーを凧のように空中で固定させ、安全で安定させた実験を行うため、常に安定的に強い風が吹いている地域を探して実験していました。
それから数年が経過した1903年(明治36年)、ライト兄弟はアメリカ合衆国東海岸のノースカロライナ州キティホークの郊外で飛行実験を行っていました。この時12馬力のエンジンを搭載しており、彼らの飛行機であるライトフライヤー号が世界で初の有人飛行に成功した瞬間となりました。4回の飛行に成功し、1回目は12秒120ft(約36.5 m)、2回目は12秒175ft(約53.3 m)、3回目は15秒200ft(約60.9 m)、4回目は59秒852ft(約259.6 m)という結果でした。ちょうどこの時は向かい風の状況だったため実質はさらに飛行していたということになるそうです。
これまで数多くの研究者たちが実施してきた飛行実験は跳躍の延長としか言えないようなものばかりでした。この実験では、主翼をねじり飛行を制御することを可能とし、現在の航空工学に繋がる大きな一歩となりました。
ライト兄弟の生涯(友人動力飛行実験成功後の数多くの苦悩)
ライト兄弟は輝かしい功績を治めたかと思いきや、アメリカ国内では飛行の理解があまりなく、世間からは冷淡な反応が返ってきました。さらに、特許関係の問題も発生するなど、賞賛されることは少なかったそうです。
ライト兄弟が世界初の有人飛行実験に成功した直後、多くの専門家や有識者たちから反発の声が上がりました。サイエンティフィック・アメリカン(アメリカ合衆国の科学雑誌)、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・ヘラルド、アメリカ合衆国陸軍、サイモン・ニューカム(ジョンズ・ホプキンス大学の数学者、天文学者)など数多くの場所から、「機械が空を飛ぶことは科学的に不可能だ」とする批判が相次ぎました。
その後、裁判所によって「空気よりも重い機械を用いた飛行の実験技術の開発者」として正式に認められました。特許を取得した後も、飛行機が兵器として世間から注目を浴びたため多くの嫉妬を生む原因となりました。特に強く嫉妬していたのが、有人動力飛行実験に失敗していたチャールズ・ウォルコットと、腕がいいことで知られていた飛行家のグレン・カーチスでした。彼らは自身の航空博物館にライト兄弟のライトフライヤー号を一切展示しなかったり、特許争いをしたりしましたが裁判所によりそれぞれ敗訴しました。
そして彼らはライト兄弟の地位を否定するために手を組みある行動を始めました。1914年(大正3年)、カーチスとウォルコットはサミュエル・ラングレー教授(飛行機開発の最先端研究を行っていた研究者)のエアロドロームを35か所も改造して飛行実験を行い成功しました。そして2人は「初めて飛行機を作ったのはラングレー」だと発表しました。これに対して弟のオーヴィルは猛抗議しましたが返答はなく、世間も世界で初の有人飛行を成功させたのはラングレーだと思い込んでいました。
そんな中でも世界中で航空技術は著しく進化していました。少し時は戻り1908年(明治41年)、フランスで世界初の飛行大会が開催されました。しかし、この時ライト兄弟は入賞もできない結果となりました。実はこの大会での優勝者の機体が、現在の飛行機の形態となっています。
ライト兄弟の機体は後に誕生した機体に比べて、離陸時やプロペラなどで大きな欠点があることが明らかとなり、彼らは新たに高性能の機体を作り上げました。その機体でアメリカ大陸横断飛行に臨みましたが何度も墜落を繰り返し、1カ月半後のゴール時には尾翼と主翼を支える支柱のみで、2人は法定闘争もあり疲れ切っていました。
1912年(明治45年)5月30日、ライト兄弟の兄ウィルバーは腸チフスのためこの世を去りました。4年後には弟も飛行機製造からは引退しました。
その後も弟オーヴィルは捻じ曲げられた歴史を修正することを目標にし、ついに1942年(昭和17年)ラングレーがいたスミソニアン協会は、ライト兄弟の功績を称え、1914年の実験を否定しました。また、ライト兄弟にも深く陳謝したそうです。
晩年の弟オーヴィルは、「第二次世界大戦において、飛行機がもたらした破壊を残念に思う」と述べ、発明したことを後悔する文言も残っているようです。
1948年(昭和23年)1月30日、ライト兄弟の弟オーヴィルはこの世を去りました。
今回は動力飛行機を発明し、世界で初の友人動力飛行実験に成功したアメリカの研究者たちライト兄弟の生涯を振り返ってきましたが、いかがでしょうか。飛行機発明といえばライト兄弟というくらい有名な方たちではないでしょうか。しかし、彼らは実験成功後にさまざまな苦悩を経験し、長年戦い続けた人生でした。飛行技術は私たちの生活を非常に豊かにしてくれるものであり、グローバル化が進んだ現代においては欠かすことのできない交通インフラとなっています。しかし、弟のオーヴィルが口にしたように使い方によっては兵器となります。様々な面において世界中に大きな影響を与えることとなった飛行技術ですが、彼らが素晴らしい実績を残したことは紛れもない事実です。このように発明品の誕生秘話や発明家の人生を知ると何か考えるきっかけとなるのではないでしょうか。