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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】ローの水素ガス生成法+人工製氷機の発明家 タデウス・ロー(鉄道事業で失敗して破産した悲運な発明家)

2022.12.01

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。産業の発展に欠かすことのできない発明の1つとしてあるのが、効率良く人工的に気体を生成する方法です。有名な例としてはアンモニアの生成方法であるハーバー・ボッシュ法などがあります。ハーバー・ボッシュ法ほど知られている製法ではないかもしれませんが、ローのガス生成法という水素の生成方法があります。この製法は南北戦争時に気球の操縦者でもあったアメリカ人科学者のタデウス・ソビエスキ・クーリンコート・ロー(Thaddeus Sobieski Coulincourt Lowe)により発明された水素発生方法です。ローのガス生成法は効率よく純粋な水素を発生させられることから、ガス製造産業の成長を後押し、アメリカ東海岸を中心にガス化プラントが急激に建設されました。また、ローのガス生成法の誕生により、先述したハーバー・ボッシュ法が利用しやすくなったのも事実です。そこで今回は、水素の発生方法であるローのガス生成法を発明したアメリカ人発明家のタデウス・ソビエスキ・クーリンコート・ローの生涯について振り返っていきましょう。

 

タデウス・ローの生涯(幼少期から気球司令部での活躍まで)

1832年(天保3年)8月20日、ローはアメリカ北西部のニューハンプシャー州コーアス郡ジェファーソンミルズに誕生しました。ローの祖父リーバイ・ローはアメリカ独立戦争を経験しており、父のクロビスは英米戦争で太鼓隊に属していました。また、父も母のアルファも生まれがニューハンプシャー州であり、開拓牧畜農家でピルグリム・ファーザーズ(イングランド王兼スコットランド王のジェームズ1世の弾圧を恐れ渡米したイングランドの清教徒たち)だったそうです。

幼いころのローは学びに対する意欲が非常に強かった少年でした。完璧に字が読めない頃から父や先生も答えられないような質問をたびたびしていたそうです。実家の農場の手伝いのため、学校に通えたのは冬のたった3カ月間のみで、2マイル(約3.2キロメートル)離れたジェファーソンヒルズの公立学校に通っていました。夜には、先生の個人秘書から借りた本を読みながら過ごしていました。

その後はボストンの兄のもとで、靴部品切断業を手伝い始めました。しかし、ローが18歳になったときに大病を患ってしまったため地元で療養することとなりました。療養中には弟にある教授の化学講義を勧められ、講義に出席しました。その講義では水素を中心に扱っており、ローは非常に興味を持ち積極的に参加していました。教授からも気に入られ、2年後に教授が引退してからは、ローが化学の巡回講義を行うほどでした。

その後、かつて祖母が願っていた医学の道に進むことも考え学び始めましたが、やはり気体に関することに強く興味があったため、飛行術を中心に学んでいました。1855年(嘉永7年)には講義で出会ったパリ生まれのレオンティン・オーガスティン・ガションと結婚しました。

1857年(安政3年)、ローは研究の末、初の気球制作に成功しニュージャージー州ホーボーケンという場所の小さな農場で操縦しました。翌年にはさらに大きな気球をいくつか制作しました。

その後、巨大な最新気球のシティ・オブ・ニューヨークを制作し、これで大西洋横断飛行の実験を実施しました。1859年(安政5年)11月1日にニューヨークで試験飛行が行われましたが、依頼していた地元のガス会社が十分なガスを供給することができなかったため、飛行できずに終わりました。失敗に終わった試験飛行の直後、ジョン・C・クレソン教授(ベンジャミン・フランクリン科学研究所に所属していた研究者)に招待され、十分なガスを供給してもらえることになりました。気球は新たにグレート・ウェスタン号と改名され、1860年(安政6年)に無事フィラデルフィア-ニューヨーク間の試験飛行が行われましたが、一部が風で破けてしまいました。2回目の試験も行われましたが、膨らませている最中に補修部分からの空気漏れが確認され一旦延期となりました。その後数回試験が行われましたが、 南北戦争が勃発したため大西洋の横断計画は白紙となってしまいました。

1861年(万延元年)の6月11日、ローはリンカーン大統領と面会しホワイトハウスの上空500フィート(152.4メートル)から電報を送るデモンストレーションを提案しました。

そして、アービンマクドウェル将軍と北東バージニア軍の第一次ブルランの戦いで最初の出撃が行われましたが、敵前線の背後に不時着してしまい自力で歩けない状態でした。不幸中の幸いで、敵に見つかる前にニューヨーク志願連隊の兵士に発見され、無事救出されました。着陸には失敗しましたが、この出来事は功績として称えられました。

その後、気球司令部の気球操縦士長となり給料が支払われていたローでしたが、1863年(文久3年)3月に給料が減額されたことと、アメリカ合衆国議会からの評価が良くなかったこともあり、5月に辞表を出しました。8月には気球司令部の活動も終了しました。

 

タデウス・ローの生涯(水素ガス生成法の発明と晩年)

ローはペンシルベニア州のノリスタウンに家を建て、そこで水素ガスの研究を始めました。1873年には水素ガスを大量に効率的に生成できる水性ガス発生法を発明して特許を取得しました。この手法ではコークスガスの主要発生源だった石炭に高圧蒸気を通すことで純粋な水素と二酸化炭素が発生するというものでした。冷却と洗浄の後水蒸気を通すことで純粋な水素のみが残りました。

これまで利用されていたのが石炭やコークスガスに比べて、これらのガスに比べ効率的な発熱燃料として有名になりました。ローの水素ガス生成法によってガス産業が活気づき、アメリカの東海岸を中心に多くのガス化プラントの建設が進みました。さらに、この手法が開発され大量の水素を生成できるようになったことにで、ハーバー・ボッシュ法を利用したアンモニアの工業的な生産もこれまでより容易になりました。

ローは人工製氷機に関しても複数の特許を取得していました。そのため、アンモニアを冷媒として利用していた低温産業界の発展にも大きく寄与しました。

1887年にはロサンゼルスに、1890年にはパサデナに引っ越して豪邸を建て、水素ガス会社を設立しました。そのあとすぐに、土木技師のデイビッド・J・マクファーソンと共にサンガブリエル山にパサデナ・アンド・マウントウィルソン鉄道を設立しました。その後、山頂付近には天文台や宿泊施設も設立しましたが、1899年に破産管財人の管理下となり事業と資産を失ってしまいました。

その後ローはパサデナにある娘の家で暮らし、1913年1月16日、81歳のときのこの世を去りました。晩年に建設した鉄道はその後マウント・ロー鉄道と改名され、1933年に苦に登録歴史史跡となり、ロー自身はアメリカ陸軍軍事情報の殿堂入りを果たしましました。

 

今回は、効率的に水素を生成できるローのガス生成法を発明したアメリカ人研究者のタデウス・ソビエスキ・クーリンコート・ローの生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。気球に関して学び、南北戦争では気球操縦士長として国に貢献しました。そして、その後水素ガスに関する研究を重ね、ガス産業の発展に繋がる水素ガス生成法を発明しました。ガスの生成法以外にも人工製氷機に関する発明や鉄道の建設も行っており、さまざまな分野において功績を残しました。しかし鉄道事業では資産を亡くし、晩年は静かに暮らすこととなり、波乱万丈の人生でした。発明家としての輝かしい功績の裏に、大変な時期があったと知るきっかけとなり感じるものがあったのではないでしょうか。普段何気なく利用しているものも発明家一人ひとりの人生があり、その中で生まれたものです。このようなことを知るだけでも周囲の物事への見方が変わってくるのではないでしょうか。

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