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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】避雷針の発明家 ベンジャミン・フランクリン(100米ドル紙幣の肖像画になったアメリカ合衆国建国の父)

2022.11.11

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。悪天候時に発生する雷が電気であるということは周知の事実となっています。かつて雷の正体が明らかとなっていなかったころ、非常に危険な実験を行い雷の正体を突きとめたのがアメリカ合衆国の物理学者・気象学者であったベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)です。フランクリンは嵐の中で凧を空にあげ雷が電気であることを証明しました。さらに、落雷から建物を保護するために使われる避雷針や、燃焼効率が良いストーブなどさまざまな発明を世に残しました。そして、発明以外にも政治家、外交官などを経験し数多くの功績を残した人物でもあります。現在では「アメリカ合衆国建国の父」の一人として称えられており、100米ドル紙幣の肖像画として描かれています。そこで今回は、雷の正体を明らかにし、避雷針の発明をはじめさまざまな功績を残した人物、ベンジャミン・フランクリンの生涯を振り返っていきましょう。

 

ベンジャミン・フランクリンの生涯(若くしてさまざまな功績をあげる)

ベンジャミン・フランクリンは1706年(宝永3年)1月6日、イギリス領北米植民地(イギリス第一次植民地帝国の北米植民地を指し、現在のアメリカ合衆国)マサチューセッツ湾植民地ボストン市のミルク・ストリートで誕生しました。フランクリンの父・ジョサイア・フランクリンは獣脂ろうそく製造で生計を立てていました。ジョサイアは2度結婚しており子供はなんと17人もおり、フランクリンはその15番目でした。

フランクリンが10歳となった1716年(正徳6年)、学校教育を修了しました。その頃兄のジェームズは「ニュー・イングランド・クーラント」紙の印刷出版を行っていました。そして2年後の1718年(享保3年)にはジェームズの徒弟となり、記者や編集者として働き始めました。フランクリンにはこの仕事が向いていたようで徐々に頭角を現していきました。あるとき、自由主義的論調によって一時的に兄が投獄されたときがあり、その期間フランクリンが代わりに発行人となっていました。

しかし、5年後の総会でジェームズは、ボストン市内での印刷禁止令が出されてしまいました。そのため、印刷屋の名義をフランクリンに変更してクーラント紙の発行を何とか継続していました。ところが、兄と意見の食い違いが増え2人は縁を切り、フランクリンはボストンを去ることとなりました。ニューヨークに向かいましたが印刷工の仕事がなかったため、フィラデルフィアへ移り印刷工の仕事を見つけました。

1724年(享保9年)には知事の推薦によりロンドンで植字工として働くことになりましたが、2年後には帰国し印刷業を再開しました。1729年(享保14年)には植民地時代に最も読まれていたとされる「ペンシルベニア・ガゼット」紙を買収し、アメリカで初めてのタブロイド誌を発行しました。

1731年(享保16年)にはアメリカ初の公立図書館をフィラデルフィアに設立し、アメリカ中に図書館が設立されるきっかけとなりました。1737年(元文2年)にはフィラデルフィアの郵便局長に就任、1743年(寛保3年)にはアメリカ学術協会を設立するなど多くの場面で活躍しました。

1751年(寛延4年)には後にペンシルベニア大学となるフィラデルフィア・アカデミーを創設しました。この頃のフランクリンは科学やそれを使った発明に対する興味が非常に強く、さまざまな実験を行っていました。

 

ベンジャミン・フランクリンの生涯(雷に関する実験をはじめとする活躍)

フランクリンは、ライデン瓶(一度に数千ボルトの電圧を発生させることができる装置。電流が小さいため強く感じることはない。)に関する実験を知り電気に対する興味を強くしていました。そして1752年(宝暦2年)、雷が鳴る嵐の中で凧を空にあげました。このときの実験は、凧糸の末端にワイヤーでライデン瓶を取り付け雷雲の帯電を証明するものでした。この実験によりフランクリンの仮説は証明され、雷の電気にはプラスとマイナスの両方の極性が存在していることまで明らかとなりました。

フランクリンが嵐の中行った雷に関する実験が成功したことから、後に他の研究者たちが検証実験や同様の実験を行い死者が続出する結果となりました。そのため、あまり大々的にフランクリンの実験が紹介されることもなくなり、「フランクリンが死ななかったのはただ運が良かっただけだ」「絶対に真似すべきではない」と言われるようになりました。

さらにフランクリンは嵐が風と共に移動することも発見したと言われています。少し前になりますが1743年(寛保3年)の10月21日アメリカ大陸東部では月食が観測される予定でした。楽しみにしていたフランクリンでしたが、当時のフィラデルフィアは日没前から天候が崩れ、大嵐だったため月食を見ることは出来ませんでした。しかし、同時刻に約640キロメートル離れたボストンでは月食が観測できていたことを知り、4時間後にボストンに嵐が到達したのではないかと考えました。移動速度は時速160キロメートルであり、現在からするとその予測は非常に速いものだと考えられますが、嵐が風と共に移動することを初めて推測したのがこの時のフランクリンでした。

また、フランクリンは物理学や気象学の知識を駆使して避雷針も発明しました。避雷針は地面と空中の電位差を緩和して落雷の頻度を下げたり、落雷時に避雷針に雷を呼び込んで地面へ電流を流したりすることで建物を落雷から守る製品です。さらに、燃焼効率が良いストーブ(フランクリンストーブと呼ばれる)や遠近両用メガネ、グラスハーモニカなども発明しました。しかし、これらの発明に対してフランクリンは特許を取得せず、産業発展に貢献したそうです。

1758年(宝暦8年)にはジョン・ハドリー(イギリスの天文学者・数学者。ニュートン式の反射望遠鏡を初めて実用化したことで有名な人物。)との共同研究で、物体を急速冷却する実験を行いました。18度の気温の中で結果的にマイナス14度まで急速冷却することに成功しました。この実験は冷却に関する初期の研究だったとされています。

その他にも火山噴火と季節変動に関する洞察を行ったり、アメリカ独立宣言の起草委員として活躍したりと幅広い分野であまたの功績を残しました。

1790年(寛政2年)4月17日、ベンジャミン・フランクリンは84歳のときフィラデルフィアで息を引き取りました。生前彼が世に多大なる功績を残したことから、国葬が実施されました。

 

今回は雷の正体を明らかにし、避雷針や燃焼効率の良いストーブ、遠近両用メガネなどさまざまな発明を世に残し、科学以外の分野でもたくさんの功績を残した人物、ベンジャミン・フランクリンの生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。フランクリンは幼いころから印刷工として頭角を現し始め、記者や編集者として活躍していました。その後は興味のあった科学分野の研究をはじめ、生死にかかわる非常に危険な環境の中実験を行い、雷の正体を明らかにしてくれました。危険な実験があったからこそ落雷から私たちや建物を守ってくれる避雷針が誕生し、今では安心して生活できる環境となっています。そしてアメリカ独立宣言においても政治家として尽力し貢献した人物でした。今では米ドルの100ドル紙幣に肖像画として描かれ、現在のアメリカを作ってくれた人物として広く知れ渡るようになりました。私たちの生活を陰で支えてくれているような技術や重要な発見が危険と隣り合わせで誕生したということを知ると、周囲の物事への見方が変わってくるのではないでしょうか。これからの世の中がどのように変わっていくのか楽しみですね!

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