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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】モールス符号の発明家 サミュエル・モールス(有名な画家でもあったが経済的には報われなかった多才な発明家)

2022.11.04

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。通信衛星が登場するまでの間、遠洋航海中の船舶間や船舶と陸上とのやり取りで大活躍したのがモールス符号を用いたモールス通信です。モールス符号とは、電信(符号の送受信による電気通信方法)で利用される可変長符号化された文字コードを指しています。モールス符号が開発されたことにより、通信が困難な遠洋航海の環境での通信が容易になりました。モールス符号を使った通信は、回光通信機という機械を使用して船舶間や陸上との通常の通信から遭難信号まですべての通信で利用されました。現在では通信衛星が普及したため一般的に使用されることはなくなりましたが、かつての産業を活性化させてくれた重要な通信手段でした。そんなモールス符号を発明したことで有名なのが、アメリカの画家でありながら発明家でもあったサミュエル・フィンリー・ブリース・モールス(Samuel Finley Breese Morse)です。彼の名前からモールス符号と名付けられ、科学の発展に大きく貢献した人物でした。そこで今回はモールス符号を発明したアメリカ人発明家のサミュエル・モールスの生涯を振り返っていきましょう。

 

サミュエル・モールスの生涯(画家として有名になるまで)

サミュエル・モールスは、1791年(寛政3年)4月27日にアメリカ合衆国マサチューセッツ州のチャールズタウンで生まれました。モールスの母はアン・フィンリー・ブリース、モールスの父はイギリス系移民の牧師だったジェディア・モールスで「アメリカ地理学の父」として非常に有名な人物です。

 

モールスはマサチューセッツ州のアンドーヴァーにあったフィリップス・アカデミーで教育を受けました。そして、コネチカット州ニューヘイブン市の私立大学イエール大学への入学を果たし、宗教哲学や数学を中心として学びを深めました。

 

イエール大学に在学中にはベンジャミン・シリマン(アメリカの化学者・地質学者・鉱物学者・科学教育者として知られる。アメリカ国内で初めて石油の蒸留精製を行った人物でもある。)やジェレマイア・デイ(アメリカの科学教育学者・会衆派教会の牧師であり、イエール大学の学長でもあった人物。)から電気の講義を受けていたそうです。また、在学中にとびぬけた絵画の才能を発揮するようになりました。当時画家として有名だったワシントン・オールストンのもとで絵画を学ぶようになりました。1810年(文化7年)、イエール大学を卒業しました。

 

オールストンはモールスの絵に興味を示し、オールストンとモールスの父が相談した結果、イングランドで3年間絵画を学ぶことになりました。

 

卒業後は絵画を勉強しながら絵画で生計も立てて生活し、旅の資金集めをしていました。大学卒業後の1811年7月15日、モールスはオールストンと共にリビア号という船でイギリスへ渡り、ロンドンのロイヤル・アカデミーで絵画について学びを深めました。ヨーロッパ文化と母国アメリカが組み合わさったことにより、独特のスタイルを確立し、アメリカに戻った後にモールスは有名な肖像画家となりました。

 

モールスの作品は現在もアメリカ絵画の最高傑作として称えられているほど実力のある画家でした。

 

サミュエル・モールスの生涯(電信線の発明)

画家として非常に有名になったモールスですが、1825年のある日、ワシントンD.C.でラファイエット侯爵(フランスの貴族・軍人・政治家)の肖像画を描いていました。その時に馬に乗ったメッセンジャー(品物・手紙・伝言を届ける人)がモールスのもとに現れました。彼はモールスに父からの「妻危篤」の情報を持ってきました。

 

伝言を聞いてすぐさまニューヘイブンへと向かいましたが、モールスが到着したころには既に死亡し、埋葬が終了した後だったそうです。

 

モールスは妻の最期に立ち会うことができなかった事実に対して非常にショックを受けました。傷ついたモールスは遠方でも高速に情報伝達が可能となる長距離通信手段の研究を始めることにしました。

 

数年後の1832年(天保3年)、モールスは大西洋を横断していました。ちょうどその船内で電磁気学に精通したボストンのチャールズ・トーマス・ジャクソンと出会いました。そこでジャクソンがしていたさまざまな実験を直接目にしました。そのときに「電磁石の導線を伸ばして片方の端で電流を断続させると、反対側の電磁石の磁気が変化する結果として信号を送れるのでは」と思いついたそうです。そしてモールスは電信の着想をするようになりました。

 

ほぼ同時期の1833年(天保4年)、ヴィルヘルム・ヴェーバー(ドイツの物理学者)とカール・フリードリヒ・ガウス(ドイツの数学者・天文学者・物理学者)が電磁石を用いた電信装置を開発していました。また、その電信装置を参考に手を加えたウィリアム・クックとチャールズ・ホイートストン(イギリスの物理学者)により、電信が初めて商業化されました。

 

クックとホイートストンは2人とも電信装置について知ったのはモールスよりも後のことでした。しかし、2人とも資金があったことなどから研究に熱中しました。クックはわずか3週間で電信機の作成に成功し、ホイートストンは大型電池を使用するよりも小型電池を多数使用する方が長距離伝送に向いているという重要な発見をしました。そして彼らは1837年の5月(天保5年)、共同で電信装置の特許を取得しました。その後すぐにロンドンの南西・西部イングランドおよびウェールズの大半を結んでいたグレート・ウェスタン鉄道に21キロメートルの電信線を設置しました。

 

その頃モールスの電信装置の開発では長距離伝送できないという問題にぶつかっていました。ニューヨーク大学教授のレナード・ゲールの助言をもとに、電信線の途中に一定の間隔で継電器(電力機器などの状態に応じて制御・電源用の電力を出力する電力機器)を設置することとなりました。そしてモールスは継電器を導入したことで16キロメートルの伝送に成功しました。

 

1838年(天保9年)、モールスは連邦政府からの支援を受けるためにワシントンD.C.へと向かいましたが、支援を受けることは出来ずに終わりました。そのためスポンサーを獲得して特許を取得するためにヨーロッパに向かったときに、クックとホイートストンが既に商業化していたことに気づいたそうです。

 

その後数年間にわたりアメリカで電信装置の実験と商業化へとむけて尽力し続けていました。1844年(天保15年)5月24日には、ワシントンとボルチモア間で電信が正式に開通し、徐々にモールスの電信が使用されるようになってきました。1856年(安政2年)に、モールスはWestern Union telegraphの創設者に招聘され、同社は5年後にニューヨークとサンフランシスコ間の大陸横断電信線を完成させました。

 

モールスは1840年(天保11年)にアメリカで電信の特許を取得しましたが、その後その特許は無視し続けられました。1853年(嘉永5年)の特許訴訟では合衆国最高裁判所まで行き、モールスの特許は認められましたが、公式には何の評価も与えられませんでした。

 

モールスは1872年(明治4年)4月2日、80歳のときにニューヨークで亡くなりました。モールスの電信装置が使用されるようになってからも特許料を企業から徴収することはなく財産の多くを慈善活動に費やしていたそうです。また、グレート・ウェスタン鉄道の電信線は、モールスの電信線の方が使用する電信線が1本で済むため後にモールスの電信線に交換されました。

 

今回はモールス信号などでおなじみの電信装置を発明したサミュエル・モールスの生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。高速での長距離電信ができなかったときにつらい思いをしたことがきっかけで電信装置への興味を持ち始め発明しました。しかし、ほぼ同時期に電信装置がヨーロッパで実用化されていたり、特許訴訟を起こすことになったりと一筋縄ではいかなかった人生でした。その後、アメリカでは大陸横断電信として採用されるなど遅れて確実に評価され始め、最終的には衛星通信が普及するまでの間世界中で使用されることになりました。現在第一線で使用されることはなくなりましたが、産業を大きく発展させ、私たちの生活を豊かにしてくれていたことは紛れもない事実です。今後どのような発明が誕生し、どのような世の中になっていくのかとても楽しみになりますね!

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