【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】三極真空管の発明家 リー・ド・フォレスト(特許侵害訴訟に苦しんだ末になんとか勝利した偉大な発明家)
2022.10.31
SKIP
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。現在私たちは電話を使うことでどこにいてもだれとでも会話をすることができます。また、無線通信の技術が発展しラジオなども普及しています。これらの電子工学の基礎となるものが三極真空管です。三極真空管とは、真空状態のガラス外囲器の内部に3本の電極を備えた電子増幅真空管のことです。アメリカ人の電気・電子技術者であり発明家でもあったリー・ド・フォレスト(Lee De Forest)が三極真空管を発明したことで、電子工学の時代が訪れ電子工学に関する様々な発明が誕生しました。さらに、映画に初めて音声をつけたのもリー・ド・フォレストであり、私たちの生活を非常に豊かにしてくれた人物です。このように電子工学分野において数々の画期的な発明や功績を残したことから、エレクトロニクス時代の父と呼ばれています。そこで今回はアメリカの電気・電子工学者であり発明家であるリー・ド・フォレストの生涯を振り返っていきましょう。
リー・ド・フォレストの生涯(幼少期から大学院修了まで)
1873年(明治6年)8月26日、リー・ド・フォレストはアメリカ合衆国アイオワ州のカウンシルブラフスで誕生しました。ド・フォレストの父は会衆派教会(キリスト教プロテスタントの一教派)の牧師をやっており、ド・フォレストにも聖職者として歩んでほしいとの願いを持っていたそうです。
ド・フォレストが幼いころ、父がアラバマ州のタラディーガにあったアフリカ系アメリカ人の学校タラディーガ・カレッジの学長となりました。そのため、ド・フォレストも幼少期はタラディーガで過ごしました。
しかし、当時は人種差別意識が色濃く残っていました。そのためヨーロッパ系住民(ヨーロッパ諸国に祖先をもちアメリカ大陸に入植した民族グループ、白人系アメリカ人)は、アフリカ系住民(アフリカ大陸に祖先をもちアメリカ大陸に入植した民族グループ、黒人系アメリカ人)へ教育を行うド・フォレストの父に対して激しく非難していました。そのような環境のため、ド・フォレストの友達もアフリカ系住民の子どもたちばかりでした。
ド・フォレストは周囲の環境にうまくなじむことができず、常に図書館で本を本でいたそうです。そんな時に興味を示したのが特許庁の報告書でした。この頃から発明に関する関心が芽生えていたのかもしれません。その後、ド・フォレストはマサチューセッツ州にあった中高一貫校に進学しました。しかし、そこでも周囲にうまく溶け込むことができず、「サル顔」と呼ばれていたそうです。
1893年(明治26年)、コネチカット州のイエール大学のシェフィールド科学学部機械工学科への入学を果たしました。大学では早朝4時からアルバイトをする生活でしたが、成績は非常に優秀だったそうです。好奇心が非常に強かったド・フォレストはある日、大学の電気系統システムをいじり、全館を停電させてしまいました。それが原因で停学処分となりましたが、後に復学を許され無事に卒業することができました。大学のころから特に科学への興味が強くなり、機械やゲームを発明しそれによって収入を得て、学費の一部としていたそうです。その後はイエール大学大学院への進学を果たし、電波に関する研究を続け、1899年(明治32年)にPh.D.(おもに英語圏で授与されている博士水準の学位、哲学博士とも呼ばれる)を取得しました。
リー・ド・フォレストの生涯(三極真空管の発明と特許侵害の訴訟問題)
大学院を修了後、ド・フォレストはグリエルモ・マルコーニ(無線電信を発明したことで有名なイタリアの発明家)が既に発明していた無線電信に興味を示していました。そこで、ド・フォレストはマルコーニに直接手紙を出し、就職したい想いを伝えるも結局返事はなかったそうです。
結局、イリノイ工科大学の前身の1つとして知られる研究機関のArmour Institute of Technologyで研究員として研究することとなりました。ここでは、かねてから興味があった無線、燃焼ガスと放電の関係、電波検出器などの研究に尽力しました。
そして1904年(明治37年)にジョン・フレミング(イギリスの電気技術者・物理学者)が発明した、フレミング管と呼ばれる二極管を発展させることに成功しました。これは、電波検出器として機能する二極管であり、1906年(明治39年)の1月に特許を出願しました。
その後も研究を継続し、同年にオーディオン管(ド・フォレスト管とも呼ばれる)という三極真空管の1種を発明しました。従来の二極管はカソード(フィラメント)とアノード(プレート)から成っていました。今回のオーディオン管は従来の2本の電極間に3本目の電極であるグリッドを挿入したもので、信号の増幅に使用できました。三極真空管を発明したのはド・フォレストのこの製品が世界で初めてだとされています(三極真空管、三極管という言葉が誕生したのはのちの1919年)。このオーディオン管に関しては1907年(明治40年)に特許を出願し、翌年2月に特許を取得しました(米国特許番号第879,532号)。
ド・フォレストが三極真空管の発明に成功したことは、その後の電子工学分野に大きな変革をもたらしました。三極真空管は大陸横断電話通信網やラジオ、レーダーなど様々な技術に利用されていました。ニコラ・テスラ(テスラ変圧器の発明などで有名なセルビア国籍の電気技師)やグリエルモ・マルコーニによって無線通信システムが発明されてから、1948年(昭和23年)のトランジスタの発明までの期間重要な役割を果たしていました。オーディオン管は、最高速の電子スイッチング素子としても知られており、トランジスタが実用化されるまではデジタル回路(初代コンピュータなど)に対しても必需品でした。
実は、ド・フォレストは研究の試行錯誤をしているうちにこの発明に成功したため、動作原理を完璧に理解できていたわけではありませんでした。その後、アーウィング・ラングミュア(アメリカ人発明家)によって三極真空管の原理が初めて明らかとなり、大幅な改良がなされました。
ド・フォレストは1916年にある発明に関して特許出願をしました。しかし、1914年に再生回路の特許出願をしていたエドウィン・アームストロング(アメリカの電気工学者)によって、特許侵害をしているとして訴えられました(正確にはアームストロングが特許権を譲渡したRCAからド・フォレストが特許を売却したAT&Tへ)。この特許侵害の裁判はなんと12年間も続き、最終的にド・フォレスト側の勝利に終わりましたが、その後もこの判決は間違いだったという声が後を絶たないそうです。
晩年、ド・フォレストはラジオ局を立ち上げ、世界初のラジオ広告の放送に成功させるなど功績を残しました。しかし、アームストロングとの訴訟問題で勝利したことにより、業界内では悪者にされたままでした。
1961年(昭和36年)、ド・フォレストは87歳でこの世を去りました。
ド・フォレストは1991年(平成3年)にドキュメンタリー番組で取り上げられていますが、批判的に描かれたものでした。
今回は三極真空管を世界で初めて発明したアメリカ人発明家のリー・ド・フォレストの生涯を振り返ってきましたが、いかがでしょうか。三極真空管は電子工学の基礎となり、その後の科学の発展に大きく貢献してくれたことが分かりました。輝かしい功績とともに晩年は訴訟問題にも苦しんだ人生でした。彼に対して様々な意見があるかもしれませんが、画期的な発明品を世に残し、私たちの生活を豊かにしてくれたことは紛れもない事実です。発明品の歴史を知ると改めて考えさせられるものがあります。これからどのような発明が誕生するのかとても楽しみですね。