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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】チューインガムの大量生産システムの発明家 トーマス・アダムス(アメリカンチクルカンパニー(現モンデリーズ)創業者)

2022.10.07

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。コンビニやスーパーで安く購入でき、子どもたちのお菓子として、また仕事中の気分転換として人気なのがチューインガムです。ガムベースに味や風味が付いたお菓子の総称であり、世界中で人気となっています。どこででも安く購入できるのは、チューンガムが大量生産され安定的に供給されているからです。このチューインガムの大量生産システムを発明し特許を取得したのが、アメリカ人発明家のトーマス・アダムス(Thomas Adams)でした。かつて、チューインガムが一般的となる前、チクルと呼ばれるチューインガムの原料はゴムタイヤの原料として利用されていました。当時、天然ゴムが高価だったことから、アダムスはチクルを使って様々な製品を作る実験を行っていましたが失敗してしまい、在庫処分に悩んでいました。そこからチクルを有効活用する手法としてチューインガムの大量生産を試みました。それが大成功し、現在では世界中でチューンガムが流通し人気のお菓子となっています。今回はチューインガムの大量生産を可能にした人物、トーマス・アダムスの生涯を振り返っていきましょう。

 

トーマス・アダムスの生涯(チクルによる合成ゴム製品実験の失敗まで)

1818年(文政元年)5月4日、トーマス・アダムスはアメリカのニューヨーク州ニューヨーク市に生まれました。実はアダムスの幼少期に関する情報として残っているのは誕生日と出身地くらいで、他の記録はほぼありません。

それからときは経ち、1850年代に、アダムスはアメリカのニューヨークに住んでおり、アントニオ・デ・サンタ・アナ(11回メキシコ大統領を務めあげたメキシコの政治家、軍事的指導者)の秘書として働いていました。このとき、メキシコの将軍たちは亡命しており、ニューヨークのスタテンアイランドにあった自宅で、アダムスと一緒に生活していたそうです。

サンタ・アナと生活を共にしているときにアダムスはあることに気づきました。サンタ・アナはマルニカラの木のガムを噛むことが好きでした。このガムはチクル(熱帯アメリカ原産のサポジラの樹皮を傷つけて得られる乳状樹液)として知られていたものでした。

このチクルなどの天然物は何千年もの歴史があり、古代エジプト人やギリシア人、アステカ人(メキシコ中央高原で栄えた民族)などの民族内ではチューインガムとして親しまれてきたものだったそうです。

北アメリカ大陸ではチューインガムがアメリカ先住民たちによって長期間利用されてきました。その後、アメリカはイギリスによる植民地化が進み、イギリス人たちにもチューインガムの慣習が採用されました。しばらくした後にジョンB.カーティス(アメリカ人実業家)によって、初めてガムが商業的に販売されました。この時のガムはチクル製ではなく、甘く味付けされたパラフィンワックスから作られたものでした。

ちょうどその頃、サンタ・アナはチクルから合成ゴムタイヤが作れるのではないかと考えており、それをアダムスに相談していました。サンタ・アナはメキシコ人の友人がいたため、チクルを安く提供してもらいました。そしてアダムスはチクルから合成ゴム製品を作ることを目的として研究を開始しました。当時は天然ゴムが高級品であったため、アダムスによる合成代替品の研究は非常に価値の高いものでした。

アダムスはチクルを利用して、おもちゃ、マスク、レインブーツ、自動車用タイヤを開発しようと研究を続けましたが、全て失敗に終わってしまいました。期待していた研究がすべて失敗に終わってしまい、アダムスは大きなショックを受けていたそうです。

 

トーマス・アダムスの生涯(チクル製のチューインガムの誕生と大量生産)

研究が失敗に終わり、1年分の仕事を無駄にしてしまったと落ち込んでいたアダムスは、ある日ドラックストアを訪れました。そこである少女がホワイトマウンテンパラフィンワックスのチューンガムを購入している姿を目撃しました。このときアダムスは、かつてメキシコではチクルがチューインガムとして使用されていることを思い出しました。そして、研究で大量に余ってしまったチクルを使用して何かできるはずだと確信し新たに研究を開始しました。

1869年(明治元年)、アダムスはチクルにフレーバーを加えることで、余っていた在庫をチューインガムに作り変えるよう催促されていました。その後、アダムスは世界で初のチューインガム工場を設立しました。

1871年(明治3年)、チクルから製造されたチューインガムは「アダムスニューヨークガム」と名付けられ、ドラックストアで1ペニー(アメリカ、カナダなどのドル圏における1セント銅貨の別称)で販売されることになりました。当時のガムボールは、表紙にニューヨーク市庁舎が描かれ、さまざまな色のラッパーが入れられていました。

チクルによるチューインガムは瞬く間に人気となり、アダムスは大量生産が可能となる機械を設計するように駆り立てられました。1871年アダムスは、チューインガムの大量生産が可能となる機械を発明し、同年に特許を取得しました。

1888年(明治21年)にはトゥッティフルッティと呼ばれるアダムスチューインガムが発売され、このチューインガムは世界初となる自動販売機で販売されたチューインガムでした。チューインガム自動販売機はニューヨーク市の地下鉄の駅に設置され、他のアダムスチューインガムと共に販売されました。

当時、市場には複数社からさまざまなガム製品が出回っていましたが、アダムスチューインガムが圧倒的に人気となっていたそうです。競合他社を引き離し、1884年(明治17年)には甘草風味の「ブラックジャック」、1899年(明治32年)にはチクルから名づけられた「チクレット」が誕生しました。

1899年(明治32年)、アダムスはアメリカとカナダの他のガムメーカーと合併させ、大規模ガムメーカーのアメリカンチクルカンパニーを設立し、初代会長となりました。会社設立後も順調にチューインガム人気は高まっていき、研究者たちによって他の合成バージョンも開発され販売されるようになりました。種類が増えた現在でもチクル製のチューインガムが高い人気を誇っています。

アダムスはアメリカンチクルカンパニー社で取締役として活躍を続けましたが、辞任後の1905年(明治38年)2月7日にニューヨークで息を引き取りました。

アダムスはチューインガム産業を活気づかせた中心人物であり、現在も世界中でチューインガムは愛されています。2018年(平成30年)現在、アメリカ国内でのチューインガム売上高はなんと40億ドルにものぼり、非常に大きな市場へと成長を遂げました。

 

今回はチューインガムの大量生産システムを構築し、世界中に普及させたアメリカ人発明家、トーマス・アダムスの生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。天然ゴムが高価で合成ゴムに期待が寄せられていた時代に、チクルを利用した合成ゴム製品の研究に尽力していました。しかし期待されていた研究がすべて失敗に終わり、一度はどん底に落ちたアダムスでした。その後、何気ないことがきっかけでチューインガムに目を向け、大成功を収めました。アダムスチューンガムはアメリカ国内で圧倒的な人気を博し、急速に広まりました。その需要に応えるため大量生産機を開発し自動販売機でのサービス展開など、新たなセールス方式によりチューインガム産業を大きくしていってくれました。現在では一般的となった商品や製品もこのような歴史を知ると見方が変わってきますよね。今後どのような世の中になっていくのかとても楽しみですね!

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