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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】電話の発明家 アレクサンダー・グラハム・ベル(ボストン大学教授、AT&T創業者)

2022.09.13

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。現在ではSNSなどの普及によって電話を使用する機会も減ってしまいました。しかし、スマートフォンが普及する前の世界では固定電話が広く使われており、私たちの生活を非常に豊かなものにしてくれました。電話が発明される前の世界では手紙でしか遠方の相手とやり取りができなかったため、電話の発明は非常に革命的なものでした。電話の父として知られているのが、スコットランド出身の科学者・発明家のアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)です。彼は音声に関する研究を行っており、電話の発明に成功し世界中の生活をとても豊かなものに変えてくれました。さらにその後は、フォトフォンや金属探知機の発明、航空実験などを行い科学の発展に大きく貢献した人物です。そこで今回は電話の父とも呼ばれ、様々な発明品を世に残してくれた科学者・発明家のアレクサンダー・グラハム・ベルの生涯を振り返っていきましょう。

アレクサンダー・グラハム・ベルの生涯(幼少期から音声の実験開始まで)
1847年(弘化4年)、アレクサンダー・グラハム・ベルはスコットランドのエディンバラに誕生しました。彼には2人の兄弟がいましたが、2人とも幼いころに結核(マイコバクテリウム族の細菌によって発症する感染症。結核の死者のうち95%は低中所得国であり2020年には150万人が死亡した。)となり亡くなってしまいました。幼いころ彼は大学教授だった父のアレクサンダー・メルヴィル・ベルと母のイライザ・グレイスと共に暮らしました。父は彼のことをアレックと呼び、親せきや友達からもそう呼ばれるようになりました。
アレックは小さなころから植物の標本を集めることや実験をすることに対して非常に興味を持っていました。アレックの友達で製粉所を営んでいた家がありました。アレックは製粉所に出向き、「何か大変なことはないか」と質問し、製粉前の脱穀の作業が大変だということを知りました。そして12歳になったアレックは脱穀作業を楽にできないかと考え続け、回転パドルとブラシを組み合わせた脱穀機の作成に成功しました。なんとその脱穀機がその後製粉所で何年も使用されていたようです。
その他にもピアノや腹話術などにも興味を示したそうです。アレックが12歳のころ母が聴覚障害に悩まされ、聞こえが悪くなってきたことをきっかけに手話も勉強し始めました。最終的には母の隣で手話を使って会話の同時通訳ができるまでに成長したそうです。このようにアレックは幼いころから様々な分野で才能を発揮しました。
アレックはエディンバラのRoyal High Schoolに入学しましたが、15歳のときに退学し、父から教育を受けました。学校では目立って成績が良いということは特になく、科学(特に生物学)以外にはそれほど興味関心を示していなかったようです。退学後、真剣に学習に取り組むようになりました。
アレックが16歳のときにはウェストンハウス学院(スコットランドマレーのエルギンの学校)で弁論術と音楽の教師となりました。さらに学生としてラテン語とギリシャ語も学んでいました。翌年にはエディンバラ大学への入学を果たしました。
1863年(文久2年)、アレックは父に連れられて、ヴォルフガング・フォン・ケンペレン(ハンガリーの著述者・発明家)の業績に基づいてチャールズ・ホイートストンが発明したオートマタ(ヨーロッパで作られた機械人形)の見学に行きました。この時にアレックは喋るオートマタに衝撃を受け、ケンペレンのドイツ語の著作を翻訳して内部構造を勉強するようになりました。そして兄のメルヴィルと一緒にオートマタの頭部を作成し始めました。最終的に、数単語ではあるものの喋るオートマタの頭部を完成させました。この実験がアレックにとって初の音声分野の実験となりました。
その後も音に関する研究や実験を継続し、アレックが19歳になったときにはこれまでの研究成果を論文にまとめるまでになりました。その後、アレックはドイツ語で書かれた音に関する本を熟読しました。当時のアレックはドイツ語が不慣れであったため一部内容を誤って解釈してしまった部分がありました。しかし、この誤った解釈が後の音声信号電送の土台となりました。アレックは、「もしも当時ドイツ語が読めていたら、決して実験を始めなかったかもしれない」と述べています。

アレクサンダー・グラハム・ベルの生涯(電話の発明)
その後、兄の死やカナダでの研究生活などを経験しました。
時は経ち1873年(明治6年)、アレックはアメリカボストン大学で発声生理学と弁論術の教授となりました。この頃は教授としての講義もあり、十分に研究時間を確保することが難しかったそうです。とはいえ、寄宿舎の部屋に夜遅くまで籠り実験を継続していました。
1874年(明治7年)、電信と呼ばれる電報が頻繁に使用されるようになりました。そして、ウエスタンユニオン(アメリカの金融・通信事業の会社)の会長ウィリアム・オートンはトーマス・エジソン(アメリカの発明家)とイライシャ・グレイ(アメリカの発明家)に1本の導線で複数の電信メッセージを電送する方法の研究を命じていました。一方のアレックは複数の高さの音を1本の導線で伝送する方法について研究していました。
アレックは金銭的な援助を受けながら、助手のトーマス・ワトソンと共に1875年(明治8年)にacoustic telegraphy(音響電信)の実験を行いました。この実験の最中に、ワトソンが金属リードを1本引き抜いてしまい、アレックはそのリードの倍音を聞きました。これにより、複数本のリードは不要であり1本でも問題ないということに気づいたそうです。まだこの段階では明瞭な音声を伝えることは出来ませんでしたが、音を電送することは出来る電話のような製品の発明に成功しました。
同年にアレックはacoustic telegraphyの特許申請書を書き提出しました。そして米国特許商標庁によって1876年(明治9年)の3月3日にacoustic telegraphyの特許が認可され、同月7日に公告されました。この時の与えられた特許の範囲は「声などの音に伴う空気の振動の波形に似せた電機の波を起こすことにより…声などの音を電信のように伝送する手段および機構」でした。
さらになんと特許公告の3日後に電話の実験に成功してしまいました。この時には上記とは少し仕組みが異なる液体送信機を使用していました。音を受信した方の膜が振動して、その振動によって水柱の針を振動させて回路の電気抵抗を変化させる仕組みだったようです。初の電話で発せられた言葉は‘‘Mr. Watson! Come here; I want to see you!” だったそうです。
実はこの電話はイライシャ・グレイ(アメリカの発明家で先に似たような仕組みの電話を研究していた人物)の設計を盗んだとして訴えられてしまいました。しかし、これは特許取得後の科学的な実験であり商用に利用した事実はないため、問題にはなりませんでした。
アレックが発明した電話は相手の声が聞き取りにくいという問題を抱えていました。しかし、後にエジソンによって改良されその問題は解消されました。1877年(明治10年)11月、日本に電話が伝わりました。このようにして世界中での電話文化が誕生しました。アレックは、1877年(明治10年)には、ベル電話会社(現在のアメリカ最大の通信会社であるAT&Tの前身)も創業しました。
1922年(大正11年)、糖尿病に起因する合併症によって75歳でこの世を去りました。
アレックは電話の発明で有名になっていますが、蓄音機、航空機、水中翼船など数多くの分野で特許を取得しており、私たちの生活を豊かにしてくれました。

今回は電話を発明したことで有名なアレクサンダー・グラハム・ベルの生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。幼いころから音に関して興味関心が強く実験を継続して電話の発明に至りました。電話は私たちの身近にある製品のため、電話が存在しない世界はあまり想像できないかもしれません。このような過去の発明家たちの努力があったため私たちは快適に暮らすことができています。今後どのような発明品が誕生し、どんな世の中に発展していくか楽しみですね!

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