【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】誘導モーター+交流送電システム+超高周波発生器+テスラコイル(高圧変圧器)+無線通信機の発明家 ニコラ・テスラ(栄光なき天才発明家)
2022.08.15
SKIP
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。電気界で最も有名な発明家はトーマス・エジソンかもしれません。しかし、そのエジソンと電力戦争を繰り広げたとして非常に有名な人物がいます。オーストリア帝国(現在のクロアチア)で生まれ育ちアメリカに移住し、テスラ変圧器、発電機、交流電機方式など科学技術の発展に著しく貢献した発明家がニコラ・テスラ(Nikola Tesla)です。テスラはアメリカに移住してエジソンのもとで1年間働いた経験を持っています。その後彼は様々なものを発明・開発し、電気や電磁波に関して歴史的に重要な人物として今も語り継がれています。また、セルビア・クロアチア語、チェコ語、英語など合計で8つの言語を流暢に操り、詩作、音楽、哲学にも精通しているなど幅広い分野に興味を示した人物でもありました。そんなテスラは世の中に多大な貢献をしたと認められ、テスラが残した資料はユネスコの記憶遺産に登録されています。そこで今回は電気、電磁波界で数々の功績を残した人物、ニコラ・テスラの生涯について振り返っていきましょう。
ニコラ・テスラの生涯(幼少期から誘導モーターの発明まで)
1856年(安政2年)7月9日ニコラ・テスラは、現在のクロアチア西部にあたるオーストリア帝国リカ=コルバヴァ県で、セルビア人の父・ミルーティン・テスラと母・ドゥカのもとに誕生しました。テスラの父はセルビア正教会の司祭で詩人をやっており、母は調理器具類をしばしば発明するような人だったようです。また、テスラは兄が1人、姉が2人、妹が1人と、5人兄弟の4番目でした。
テスラが5歳になった頃、兄が亡くなり、その頃から幻覚を見るようにもなったそうです。また、優秀だった兄を越えようと、必死に勉強をするようになったのもこの頃でした。テスラは特に数学を得意とし、幼いころから並外れた才能を発揮していたようです。
テスラが6歳になったとき父が転任することとなり、ゴスピッチに引っ越すこととなりました。1870年(明治2年)、テスラはカルロヴァッツにあった高校に進学しました。
高校に進学後テスラはコレラ(コレラ菌を病原体とする傾向感染症の一つ。これまでに7回世界的流行が発生している。先進国での発生は稀だが現在もアフリカや東南アジアではリスクが残っている。)に感染してしまい、なんと9か月間も生死の境をさまよったそうです。
なんとか一命を取りとめ、その後は勉学に励み、1875年(明治8年)にグラーツ工科大学への進学を果たします。テスラは大学で様々な学問に触れていくうちに、電気モーターに興味を持つようになりました。ちょうどこの頃、テスラは交流電気方式について考えるようになりました。
しかし、大学で学んでいる途中、テスラの父が死去しました。父が死去したとき、テスラの学費が残っている状態ではなかったため、テスラは授業料を払えなくなり、泣く泣く退学する道を選びました。1878年(明治11年)12月に中退してからは自力で学びました。
2年後の1880年(明治13年)、チェコのプラハ大学に留学に行きました。1881年(明治14年)にはハンガリーのブダペスト国営電信局に就職しました。テスラは働きながら交流電機方式の研究を継続していました。
1882年(明治15年)にはパリに転勤、翌年にはイスタンブールに転勤することになりました。海外勤務のときにも仕事の合間を縫ってモーターの開発に尽力していました。そしてついに誘導モーターの開発に成功しました。
ニコラ・テスラの生涯(エジソンとの出会い以降)
テスラは誘導モーターの開発に成功したものの、欧米諸国で彼の誘導モーターに興味を示す人物はいませんでした。そこでテスラはほとんど所持金がない状態にもかかわらず、渡米することを決意しました。そして1884年(明治18年)、自分が詠んだ詩集と飛行機械のアイデアの計算を記した書類と共に単身アメリカへ渡りました。
テスラはアメリカでトーマス・エジソン(アメリカ合衆国の発明家、蓄音機や白熱電球をはじめとしてなんと1300もの発明と技術革新を行った歴史的にも有名な人物)が運営するエジソン電灯会社の求人を見つけ、応募して採用されることとなりました。
エジソンの会社は直流による電力でサービスを展開していました。そのため、工場のシステムはエジソン好みの直流用に設計された物でした。エジソンはテスラに直流の優位性や安全性と共に交流の難しさを伝えることを目的として、「工場のシステムを交流電源で稼働出来たら褒賞金として5万ドル支払う」と言いました。しかし、なんとテスラはそれを成功させたそうです。エジソンはそれに驚き交流を認めたくないという思いから、「あれは冗談だった」と言い褒賞金を支払わなかったそうです。これに対してテスラは激怒し、テスラとエジソンの確執が生まれました。結局テスラはエジソンの会社をたった数カ月で退社することとなりました。
エジソンの会社を退社した後、1887年(明治20年)4月にテスラはテスラ電灯社Tesla Electric light Companyを設立しました。そして交流による電力事業を展開して、その年の10月には交流送電システムの特許を出願しました。
翌年、テスラは誘電モーターと交流電機システムに関する論文“A New System of Alternating Current Motors and Tran.”を発表しました。5月に開催されたアメリカ電子工学学会にてテスラはデモンストレーションを実施し、それを見たジョージ・ウェスディングハウス(アメリカの発明家。鉄道車両専用の空気ブレーキなどを発明)から研究費としてなんと100万ドルと特許使用料の支援を受けました。
そしてウェスディングハウスはテスラのための研究施設まで設立しました。そこではレントゲンのX線の装置開発なども任されていました。また、同年にテスラは循環磁界を発見し、超高周波発生器の開発に成功しました。しかし、会社の技術陣営から孤立してしまい、またもたった1年で退職することになりました。
その後は1891年(明治24年)には100万ボルトまで出力できるテスラコイルという高圧変圧器を開発し、1893年(明治26年)には無線通信機(情報を送信する電気通信装置)の発明に成功しました。
1915年(大正4年)、これまでの数々の功績が認められ、エジソンとテスラはノーベル物理学賞受賞者に選ばれたとのうわさが流れました。しかしこの時には両者ともに選ばれませんでした。
1917年(大正6年)、米国電気工学協会エジソン勲章を受章しました。
1943年(昭和18年)1月7日、マンハッタンのニューヨーカーホテルにて、冠動脈血栓症により86歳で亡くなりました。テスラの晩年は金銭面に非常に苦しんでおり、亡くなったときにはほぼ所持金がなかったそうです。
テスラが生涯で発明した物や設計図合計数トンは2003年(平成15年)にユネスコ記憶遺産に登録されました。
今回は交流送電システム、無線機などを発明した人物、ニコラ・テスラの生涯について振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。「電気といえば」で有名なエジソンと共に働いた経験があり衝突しエジソンのもとを離れたり、晩年には金銭的に苦労したりと大変な人生を送ってきた人物でもありました。しかし、ニコラ・テスラが発明した交流送電システムや無線通信機などは現在でも幅広く利用されており、私たちの豊かな暮らしを作ってくれたことは紛れもない事実です。さらに、彼が残してくれた莫大な量の設計図などは今後の技術の発展に大きく貢献してくれるのではないでしょうか。私たちが何気なく使っているモノや身の周りにあるものなどが、過去の発明家たちの大変な努力のおかげだと気づくと見方も変わってくるのではないでしょうか。今後どのようなものが発明され、生活がどうなっていくのかとても楽しみですね。