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【SKIPの知財教室(IP Hack)】国産初のオルガン、ピアノの発明家 山葉虎楠(ヤマハ創業者)

2022.06.17

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。学生時代の合唱コンクールや卒業式に欠かせないのがオルガンやピアノではないでしょうか。また、小さなころから習い事としてピアノを続けている方も多いことでしょう。19世紀の終わり後の日本ではオルガンが海外から輸入され始めたころであり、ピアノは普及していませんでした。20世紀に入った頃からアメリカなどからピアノが入ってきて多くの子供たちが音楽に親しめるようになりました。海外から持ち込まれたオルガンやピアノについて研究し、国産初のピアノの製造に成功したのが、山葉虎楠(やまはとらくす)でした。ピアノの開発と併せて技術者の育成にも力を入れてくれたため、現在のように日本国内でもピアノが普及しました。山葉虎楠がピアノの普及に尽力し、今ではヤマハ株式会社としてピアノ製造に加えて様々な楽器類の販売やピアノ教室が開講されています。そこで今回は国産初のピアノ製造に成功し、日本の音楽文化を作り上げてくれた人物、山葉虎楠の人生について振り返っていきましょう。

山葉虎楠の生涯(オルガンの製造成功まで)
今では日本で非常にメジャーとなっているオルガンやピアノですが、山葉虎楠が海外からの技術を研究しました。そして虎楠が国産のピアノ製造に成功したことからここまで広めることができました。ここではそんな山葉虎楠の生涯を振り返っていきます。
山葉虎楠は嘉永4年(1851年)4月20日に紀伊国和歌山城城下(現在の和歌山県和歌山市一番丁)に誕生しました。父の孝之助は紀州藩(江戸時代に紀伊国と伊勢国の南部を治めた藩)の下級武士であり、虎楠はそんな山葉家の三男でした。虎楠の父、孝之助は紀州藩内で天文係として働いていました。そんな父の影響もあってか、虎楠は幼いころから機械を触ることに興味を示しており、機械いじりも得意だったようです。
虎楠が16歳になった頃、彼は剣術修行(日本刀で戦う武術を習得するための修業)に出ました。虎楠は大和の小野派一刀流(日本の剣術の流派の一つ)の師範だった澤田孝友から剣術を学びました。二刀流(両手に刀もしくは剣を持ち攻守を行う技術の総称)が出来るまでに成長したそうですが、虎楠はその道を究めることはなく職人への道を選ぶことになりました。
明治3年(1871年)に虎楠は長崎に向かい、イギリス人のもとで時計の修繕方法について学びを深めました。鎖国が解かれたことからこの頃から西洋式の時計が一般的に使用されるようになりました。
その後には大阪の医療器具店に移り、医療器具の修理工として生計を立てていました。明治17年(1884年)には浜松の病院で働き医療器具の修理にあたっていました。幼いころからの手先の器用だったこともあり、医療器具に加えて時計などの機械全般の修理も担うようになりました。
明治19年(1886年)には海外からオルガンがやってきました。この頃オルガンに関して知識のある者は国内にほとんどおらず、機械類の修理に精通しているということから虎楠のもとに故障したアメリカ製オルガンの修理依頼が来ました。このことがきっかけとなり、虎楠はオルガンの研究をはじめました。
オルガンなど楽器類に関しての知識がなかった虎楠はオルガンを細かく分解して研究しました。オルガン研究を始めたことにより、虎楠はある確信を持つようになりました。「今後、オルガンは日本国内に広まっていくはずだ」。このように確信した虎楠は河合喜三郎と共にオルガンの製造に着手しました。
虎楠らが本格的にオルガンの研究を開始してなんと2か月後にオルガンを完成させました。そしてそのオルガンを持って東京にあった音楽学校へ向かいました。実はこの時はまだ東海道線が開通していなかったため、オルガンを担いで箱根峠を越えて行ったそうです。その苦労もむなしく、学長の伊沢修二(近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者)によって調律に関して厳しいダメ出しを受けてしまったようです。
「楽器を製造するためには機械の知識だけではなく、音楽そのものの知識がないといけない」と感じた虎楠は、1カ月かけて音楽取調所で音楽理論を本格的に学びました。浜松に戻ってからは再びオルガン製造に着手しました。完成したオルガンをもって音楽学校に向かうと、次はしっかりと認めてもらうことができました。ここで虎楠は本格的なオルガン製造に成功しました。
明治22年(1989年)、虎楠は山葉風琴製造所を設立しました。この製造所がヤマハの前身でした。

山葉虎楠の生涯(国内初のピアノの製造に成功)
虎楠が山葉風琴製造所を設立してから10年後の1899年(明治32年)にアメリカへ向かい、5カ月間の視察を行いました。アメリカではシカゴのピアノ販売業者であった「キンボール」、マサチューセッツのピアノメーカー「メイソン・アンド・ハムリン」、ニューヨークのピアノメーカー「スタインウェイ・アンド・サンズ」などを視察したそうです。当時日本には伝わっていなかったピアノに関する専門知識や製造の技術を学びました。
虎楠は帰国後、オルガンとピアノの改良研究を続けていました。そしてついに国内初となるアップライトピアノやグランドピアノの製造に成功しました。虎楠のアップライトピアノやグランドピアノが国内外から高く評価され表彰を受けました。明治35年(1902年)には緑緩褒章を受賞しました。
その後も虎楠はオルガンやピアノの研究を続けました。明治40年(1907年)にはオルガンの部品を改良することで、雑音を減少し修理も簡単なオルガンを誕生させました。これが高く評価され、虎楠は特許を取得しました(特許登録第12912号)。同年にはピアノとオルガンの生産で日本一を誇るまでに成長しました。
その後はオルガンやピアノの製造や修理の研究に加えて、技術者育成にも尽力するようになりました。虎楠の教えにより多くのオルガン、ピアノ専門の技術者が誕生し、さらに日本中に広まっていきました。虎楠は日本の子供たちが音楽を楽しめるよう、楽器制作に人生を奉げた人物でした。
大正5年(1916年)8月8日、山葉虎楠は65歳という若さでこの世を去りました。
虎楠が亡くなった後でもヤマハは様々な楽器の製造や販売、音楽教室などで私たちが音楽を楽しめる環境を提供し続けてくれています。紛れもなく虎楠は、日本の音楽文化を作り上げてくれた人物でした。

今回はオルガンの製造や修理、国内初のピアノ製造に成功した人物、山葉虎楠の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。オルガンやピアノは皆さんが小さなころから身近にあった楽器の一つではないでしょうか。学生時代の行事を振り返ってみるとそこにはピアノがありましたよね。そんなピアノを日本国内に普及してくれた人物が山葉虎楠でした。海外からの輸入品が入ってきた当時は日本国内にオルガンやピアノに精通する人物がいなかったことから、国内製造はおろか修理もままならない状況でした。専門家から辛口評価を受けながらも音楽理論を学び、本場アメリカまで足を運び、オルガンやピアノの知識や製造技術を基礎から学んでくれたため今の日本の音楽文化があります。そして現在は彼が設立した山葉風琴製造所がヤマハ株式会社へと成長し、様々な楽器の製造、販売、音楽教室の運営をする場となってくれました。私たちが気軽に音楽を楽しめるようになったのは紛れもなく彼の努力があったからです。何気なく触れてきた音楽かもしれませんが、このような発展の歴史を知ると今後の見方が変わってくるのではないでしょうか。

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