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【SKIPの知財教室(IP Hack)】小型ディーゼルエンジンの発明家 山岡孫吉(ヤンマー創業者)

2022.06.10

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。トラクターやショベルカー、そして船舶などにはディーゼルエンジンが使われており、今やなくてはならない存在となっています。ディーゼルエンジンで有名なのがヤンマーのディーゼルエンジンです。ヤンマーのディーゼルエンジンは世界中で活用されるようになりましたが、これにはある日本人が大きく関係していました。ヤンマーのディーゼルエンジンの基となったのが、小型ディーゼルエンジンです。そしてこの小型ディーゼルエンジンを世界で初めて発明したのが、日本の発明家だった山岡孫吉(やまおかまごきち)です。さらに、小型ディーゼルエンジンが発明される前に小型の農業用石油エンジンも発明に成功するなど、彼は世界中の発展に大きく貢献してくれました。そこで今回は小型のディーゼルエンジンを世界で初めて発明した日本人の山岡孫吉の生涯について振り返っていきましょう。

山岡孫吉の生涯(誕生から農業用石油エンジン開発まで)
ディーゼルエンジンは様々な場面で使用されており、世界中で活躍しています。世界で初めて小型のディーゼルエンジンを発明したのが日本人の山岡孫吉でした。ここでは山岡孫吉の生涯について振り返っていきます。
明治21年(1888年)3月22日、山岡孫吉は滋賀県伊香郡東阿閉村(現在の滋賀県長浜市高月町)に誕生しました。孫吉は7人兄弟の6番目として生まれ、父親の忠三郎は畑作をして家族を養っていました。
孫吉は明治27年(1894年)には阿閉小学校に入学して4年後の明治31年(1898年)に義務教育(1886年に公布された学校令では義務教育が原則4年であり現在よりも短かった)を終えました。孫吉は小学校で勉学の楽しさに気づき、学びを深めたいという希望から古保利村の小学校補習科(1899年に公布された中学校令の起源とされている教育機関)に進級しました。
その頃、伊香郡の七郷村に高等科が作られました。孫吉も高等科に進みたく思い、2学年に編入を果たしました。高等科で学びを深め明治33年(1900年)に無事卒業しました。
高等科の卒業後は父の手伝いをしながら暮らしていました。この頃から、奉公(商店などに下働きとして勤めること)などで村を旅立っていく級友たちが増えてきました。それを近くで見ていた孫吉にも村を出たい気持ちが徐々に芽生えてきました。
村を出たい孫吉の目に留まったのがアメリカへの移住でした。当時アメリカへの移住が積極的に募集されていました。明治時代には多くの日本人がアメリカハワイ州や本土、南米などに出稼ぎを目的として移住を果たしました。海外にリトルトーキョーなど日本人街が存在していることや、ハワイの国際空港の名称がダニエル・K・イノウエ国際空港のように日系人の名前がついているのはこの頃の海外移住が起源となっています。
孫吉がアメリカ移住を相談するとなんと180円もするということでした。「たった180円!?」と思うかもしれませんが、この頃は米一俵が3円60銭(=3.6円)という時代でしたので非常に高価なものでした。とても準備できる費用でもなく、両親からの承諾を得ることもできずアメリカ行きを断念することになりました。
明治36年(1903年)、村を出たい気持ちは収まらず、正月に父が不在の瞬間を見計らって母に奉公する旨を伝えて村を出ました。この時に母からもらった米一俵を換金して3円60銭を持ち大阪に向かったそうです。母には1万円貯めることを約束し、その後はガスの配管工となり賢明に働きました。
ガス管である程度の費用を稼げたことから、明治39年(1906年)にこれまで働いた大阪瓦斯を退社しました。翌年の明治40年(1907年)には「山岡瓦斯商会」を開業しました。孫吉は独立開業してから猛烈に働き1年間でなんと千円近くを稼ぎました。
徐々に中古のエンジン修理や販売が事業内容を占めるようになりました。それもあって明治45年(1912年)、孫吉が25歳になったときに新たな工場を設立するために大阪市北区茶屋町に70坪の土地を借りました。さらに職員も新たに7人ほど雇い修理を専門とする工場の「山岡発動機工作所」を設立しました。
その後はエンジン修理をして生計を立てていきましたが、時がたち技術が発展するにつれエンジン修理のみでは限界を感じるようになっていきました。そして、孫吉は石油エンジンの開発を進めるようになりました。
大正9年(1921年)、孫吉は日本で初めて小型の農業用石油エンジンの開発に成功し、大ヒットを納めました。この時の農業用石油エンジンは、羊の毛刈り用の石油エンジンを進化させてなんと3カ月で試作品を作り上げたそうです。翌年の大正10年(1922年)には、豊作のしるしとしてトンボの「ヤンマ」と山岡をかけて商標を「ヤンマー」と登録しました。その後国内初の農業用エンジンメーカーとして発展していきました。

山岡孫吉の生涯(世界初の小型ディーゼルエンジン発明)
農業用石油エンジンを開発した後、昭和4年(1929年)に原動機博覧会に参加しました。博覧会でより安全で燃料費も安く済むディーゼルエンジンに目が留まりました。そこから孫吉はディーゼルエンジンに興味を示すようになり研究を始めました。
しかしその直後、世界恐慌(1924年4月からアメリカの株価が大暴落、10月の株式市場の暴落により世界規模でダメージを受けた。1929年から1932年の間で世界のGDPは15%も減少したと言われている。)により孫吉の会社の業績は悪化してしまいました。業績が落ち込んでしまったせいで孫吉は研究意欲を失いかけてしまいました。
意欲を喪失してしまった孫吉が向かったのはドイツでした。そのドイツ出張がディーゼルエンジンの将来性を再認識するきっかけとなりました。これ以降、孫吉は本格的にディーゼルエンジンの小型化に関する研究を開始しました。
職員たちと一緒に何度も何度も試作品を作り続けました。そしてついに昭和8年(1933年)、孫吉は世界で初めて小型のディーゼルエンジンの開発に成功しました。ヤンマー5馬力ディーゼルエンジンとして、同年特許を取得しました(特許踏力第104895号)。
孫吉が開発した小型ディーゼルエンジンは世界的に評価され、様々な製品に使用されるまでになりました。孫吉もその後はディーゼルエンジンに特化して開発に尽力してくれました。現在では世界的にヤンマーのディーゼルエンジンは活用されるようになり、トラクターやショベルカー、船舶などなくてはならないものになっています。
孫吉は多くの功績が認められ、1955年(昭和30年)にはドイツ人以外で初のドイツ発明協会から金牌が送られました。
日本のみならず世界のテクノロジーの発展に大きく貢献してくれた山岡孫吉は昭和37年(1962年)にこの世を去りました。

今回は世界で初めての小型ディーゼルエンジンを開発した日本人の山岡孫吉の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。今や多くの機器に使われるようになったディーゼルエンジンですが、山岡孫吉が研究を重ねてくれたおかげであることが分かりました。ディーゼルエンジンを直接目にする機会は少ないことならあまり意識したこともなかったかもしれません。しかし、一度は研究の意欲を失いかけながらも、尽力してくれたおかげで今の私たちの豊かな暮らしがあります。世界中で活用されているディーゼルエンジンが日本人によって開発されたものというだけで誇らしい気持ちになりますね。もしかするとこの先ディーゼルエンジンに変わる世界的発明があるかもしれません。この先どのような世界に変化していくのかとても楽しみですね!

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