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【SKIPの知財教室(IP Hack)】蓄電池の発明家 二代目島津源蔵(島津製作所二代目社長+GSユアサ創業者+ニチユ(三菱ロジスネクスト)創業者+京都医療科学大学創設者)

2022.05.18

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。私たちが生活をする上で欠かせなくなっているのがスマートフォンやPCです。さらに、万が一に備えた懐中電灯や快適な生活を送るための掃除機などたくさんの家電製品に囲まれて生活しています。これらの家電製品の多くは、充電することで電力をチャージして再び利用できるような仕組みがとられています。電源から供給された電気を貯めて繰り返し利用できる電池を「蓄電池」と呼んでいます。蓄電池は鉛蓄電池やリチウムイオン電池など複数の種類があり、いずれも私たちの生活に密着し欠かせない存在です。この蓄電池を発明したのはなんと日本人の2代目島津源蔵(しまづげんぞう)でした。彼は「これからは繰り返して使用できる電池が必要になる」と確信して研究の末、開発に成功しました。現在では島津グループへと成長し、様々な場面において活躍しています。そこで今回は、世界中のテクノロジーの発展に大きく貢献した日本人発明家の島津源蔵の生涯について振り返っていきましょう。

島津源蔵の生涯(幼少期からX線写真撮影成功まで)
2代目島津源蔵は、蓄電池の発明に成功し、世界中の科学技術の発展に貢献した人物です。彼が発明した蓄電池は数多くの家電製品に使用されており、私たちの生活にはなくてはならない存在となっています。そこで今回は2代目島津源蔵の生涯を振り返っていきます。
2代目島津源蔵は明治2年(1869年)、京都府京都市の初代島津源蔵(幕末から明治時代にかけての商人・実業家・発明家で島津製作所の創業者)の長男として誕生しました。2代目島津源蔵は梅次郎と名付けられ幼いころを過ごしました。
明治8年(1875年)、梅次郎が6歳のときに父の初代島津源蔵が島津製作所を創業しました。当時の京都には理化学研究機関がありました。それもあり、初代島津源蔵は実験器具などを作る仕事に従事していました。
そして、父の仕事ぶりを見てか、梅次郎も科学技術への興味を示し始めました。父は梅次郎に外国語で書かれている専門書を渡しました。もちろんその頃の梅次郎には外国語を理解する能力はありませんでした。しかし驚くことになんと専門書にあった絵を参考にして学びを深めたといいます。
専門書を渡されてから2年が経った明治17年(1884年)、梅次郎は電気を起こす機械を自作するまでに成長しました。梅次郎はウィムズハースト式誘導起電機(イギリスの発明家ジェームズ・ウィムズハーストによって開発された、円盤を回転させて静電気を発生させる誘導型静電発電機)を自作し、翌年に開催された京都勧業博覧会に出品しました。そこでは、当時文部大臣だった森有礼から激励を受けるなど、この頃から才能を現しはじめていました。
明治27年(1894年)に梅次郎の父・初代島出源蔵は脳溢血により急死してしまいます。初代島津源蔵の没後、26歳になった梅次郎が2代目源蔵を襲名することとなりました(これ以降本文中に出てくる「源蔵」はこれまでの梅次郎/2代目島津源蔵を指します)。
翌年1895年(明治28年)にドイツの物理学者、ヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見しました。源蔵は、第三高等学校の教授を務めていた村岡範為馳(フランスのストラスブルク大学でレントゲンと面識を持っていた人物)と一緒にX線の研究を始めました。
範為馳と共にX線の研究を開始してすぐの明治29年(1896年)、源蔵は国内で初のX線(レントゲン)写真の撮影に成功しました。翌年の明治30年(1897年)には教育用のX線装置を商品化し販売を開始しました。

島津源蔵の生涯(蓄電池の発明とその後の活躍)
明治30年(1897年)、源蔵は京都帝国大学理工科大学(現在の京都大学)から鉛蓄電池の注文を受けていました。さらにこの頃、源蔵自身も「これからは蓄電池が必要となってくるはずだ」と確信を持っていました。それもあり同年、「ペースト式鉛蓄電池」を完成させました。
その後ペースト式鉛蓄電池は改良が加えられ、源蔵の頭文字Genzo Shimadzuをとり「GS蓄電池」と名付けられました。なんとこのGS蓄電池は日露戦争でも使用されたそうです。また明治38年(1905年)、日本海海戦において、日本郵船の貨客船だった信濃丸から「敵艦見ゆ」の第一報を旗艦の三笠に送信するという大役を果たしました。
そんなGS蓄電池は高く評価され、明治41年(1908年)に販売が開始されました。しかし、蓄電池の原料となっていたのは鉛粉でした。当時の日本では鉛粉を使った蓄電池を作る技術がありませんでした。源蔵は何とかして蓄電池を作れないか、日々考え続けました。
するとある日、源蔵は機械に付着した鉛粉を発見します。この出来事がきっかけとなり、大正9年(1920年)、源蔵は鉛粉を生成する方法を見つけ出しました。円筒の中に鉛の塊を入れ、送風しながら回転させることによって鉛粉である亜酸化鉛を生成できる「易反応性鉛粉製造法」として世に発表しました。
易反応性鉛粉製造法は、大正12年(1923年)に開催された第3回発明品博覧会・電気工業の部において高く認められ大賞を受賞しました。そして同年、源蔵が提案した易反応性鉛粉製造法は特許を取得しました(特許登録第41728号)。易反応性鉛粉製造法ですが、仕組みが難しすぎたことから、特許取得までなんと3年の期間を要したそうです。
さらに易反応性鉛粉製造法は、日本のみならずアメリカ、イギリス。フランス、ドイツなど複数の国で特許を取得しました。源蔵は多数の功績を残し、昭和5年(1930年)に執り行われた宮中晩餐会に日本の十大発明家の一人として招待されました。
昭和14年(1939年)には、島津製作所の社長職を退き会長へ就任しました。太平洋戦争が終結した昭和20年(1945年)には島津製作所の会長を退き、京都市左京区の山荘での発明に専念し始めました。
昭和26年(1951年)10月3日、源蔵は82歳でこの世を去りました。
源蔵は生涯で取得した特許はなんと178件にも上ります。数多くの発明品を世の中に残し、科学技術の発展に大きく貢献してくれました。源蔵の発明は日本のみならず、世界中で功績が認められています。
また、X線においても、大正10年(1921年)から20年間にわたってX戦講習会を開催してくれていました。昭和16年(1927年)には、日本で初めてのX線技師養成所を社内に設立するなど、X線技術の普及に大きく貢献してくれました。現在、この養成所は京都医療技術短期大学を経て京都医療科学大学となって現在もX線技術を伝え続けてくれています。
そして、島津製作所やGSユアサやニチユ(三菱ロジスネクスト)などの企業を通しても私たちの生活を支えてくれています。

今回は蓄電池を発明した日本人の発明家、2代目島津源蔵の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。彼は幼いころから科学技術に興味を示し頭角を現していました。そしてX線に関する研究とX線の普及活動、鉛蓄電池の発明など数多くの功績を残してくれました。さらに、蓄電池の原料となっていた鉛粉は、日本で作る技術がありませんでした。ところが些細な発見から生成方法の開発までこぎつけてくれました。彼が発明した蓄電池は現在、世界中の非常に多くの場面で使用されています。私たちの生活に欠かすことのできないスマートフォンやPC、多くの家電製品が蓄電池を利用しています。彼の発明がなかったら現在どのような世の中になっていたのか想像もつきませんよね。この先、様々な分野で素晴らしい発明が生まれることでしょう。これからの世の中がどうなっていくのか非常に楽しみですね!

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