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【SKIPの知財教室(IP Hack)】インスタントラーメンの発明家 安藤百福(日清食品グループ創業者)

2022.04.01

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。料理をするのが面倒なときやさっと食事を済ませたいとき、お酒を飲んで〆として何か口にしたいときに浮かんでくるのが「インスタントラーメン」ではないでしょうか。終戦後の貧しい時代に、「食が足りてこそ平和になる」と考えて、手軽に作れるラーメンの開発に尽力したのが、安藤百福(あんどうももふく)でした。彼は研究を重ねて「おいしい」「長期保存可能」「簡単に作れる」「安い」「衛生的」の5つを満たしたインスタントラーメンを完成させました。その後、インスタントラーメンは大ヒットし特許を取得、そして日本を代表する国民食にまで成長しました。同時に、インスタントラーメンは世界中に広まり多くの人に笑顔を届けられる食品となりました。そこで今回は、食で平和な世の中を作り上げようとインスタントラーメンの開発に尽力した人物の安藤百福の生涯を振り返っていきます。

安藤百福の生涯(様々な事業の展開まで)
安藤百福は日本を代表する実業家であり、日清食品の創業者です。そして、今や日本のみならず世界中から支持されているインスタントラーメンの「チキンラーメン」、カップ麺の「カップヌードル」の開発者です。今回は安藤百福の生涯を振り返っていきましょう。
安藤百福は明治43年(1910年)に日本統治時代の台湾・嘉義庁樸仔脚(現在の台湾・嘉義県朴子市)に生まれました。百福は、資産家だった父の呉獅玉(別名呉阿獅)と母の呉千緑の下に生まれましたが、両親を幼いころに亡くしてしまいました。そのため、幼少期は繊維問屋を経営していた百福の祖父・呉武に現在の台湾台南市にて育てられたそうです。
幼いころの百福は数字に対してとても関心が強かったそうで、足し算や引き算・掛け算を楽しく学んでいました。そして学校に通い始めましたが、家と学校との距離が遠かったため、学生時代は東石郡守の森永信光宅で生活をしながら通いました。百福が14歳のときには高等小学校を卒業しました(明治維新から第二次世界大戦勃発前の時代に存在した教育機関、現在の中学1,2年生相当)。
義務教育が終わると、祖父の繊維問屋を手伝うようになりました。そして、森永郡守の紹介もあり百福は20歳のときに町に完成した図書館の司書になりましたが、2年で辞職します。
幼いころに亡くなった父の遺産があったことから、百福は繊維会社設立を決意します。そして昭和7年(1932年)に台湾の永楽市場に繊維会社の「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立しました。ここでは、日本内地から製品を輸入して台湾で販売するという貿易会社として確立させました。百福は繊維業界の動きからメリヤス(ニットなど編み物の古い呼び名)の需要が今後増加すると読んでいました。そしてその予想が当たり、この事業は大きく成功しました。
事業成功もあり昭和8年(1933年)には大阪市にメリヤスを扱う問屋「日東商会」を設立しました。さらに、近江絹糸紡績の夏川嘉久次と共同でトウゴマの栽培も開始し、ひまし油の採取するようになりました。そして葉を養蚕用に繊維メーカーに卸し始めるなど、様々な事業を開始し始めました。
太平洋戦争が始まってからは、幻灯機の製造やバラック住宅の製造(兵庫県相生市)など新たな事業を拡大していきました。しかし、日本では百福が台湾出身であるという理由から差別的な扱いを受けることもありました(当時の台湾出身者は三等市民扱い)。そして拘束されることとなりますが、留置所で知り合った人物から知人の元陸軍将校(少尉以上の軍人を意味する士官の類義語)に助けを求めるなどして何とか解放されたといいます。

安藤百福の生涯(世界初のインスタントラーメンの開発)
百福は昭和21年(1946年)に、大阪の泉大津市に移り住みました。太平洋戦争が終戦してから(1945年)は、百福が理事長を務めていた信用組合が破綻するなど、世間は苦しい生活が強いられていました。この時に百福は、「衣食住というが、食がなければ衣も住もあったものではない」と感じるようになったといいます。実はこの時の想いが、後の日清食品の経営理念となる「食足世平(食足りて世は平らか)」に直結したと百福が語っていたそうです。食が足りるようになれば治安も安定し平和な世の中が創れると確信した百福は、食品事業の開始を決めました。そして終戦直後で土地が安かったこともあり、大阪の心斎橋や御堂筋、大阪駅前など相当の土地を購入しました。
そして昭和32年(1946年)に後に日清食品となる「中交総社」を設立しました。ここでは多くの専門家たちを集め国民栄養科学研究所も作られ、牛や豚の骨からたんぱく質エキス抽出に成功するなど功績を納めました。
食品事業を進める中で、百福が構想を抱いていたのがインスタントラーメンでした。そしてついに大阪府池田市の自宅に小屋を作り、「貧しい時代であっても家庭で簡単に食べられるラーメン」を作ろうと決意しました。百福が抱いている理想のインスタントラーメンは、「おいしい」「長期保存できる」「値段が安い」「安全で衛生的」の5つを満たす食品でした。百福はこのラーメン開発に必死になり、毎日早朝から夜遅くまで小屋で研究を重ねていました。
百福は何度も失敗を繰り返しました。初めはスープを染みこませた、いわば「着味麺」の開発に尽力しましたが、製麺機でボロボロになってしまうという問題が発生し断念しました。また、麺を蒸してスープに浸してみても生地が粘ついてしまい、こちらも商品化には至りませんでした。
そして、長期保存可能な麺にするために、乾燥させて食べる直前に熱湯をかけるという案に至りました。この時に百福が参考にしたのが「天ぷら」でした。麺は油で揚げることによって水分が蒸発し、その部分に小さな穴がたくさんできます。そして食べるときにお湯をかけることによって、無数の穴にお湯が染みこんで元通りの麺になると考えました。昭和33年(1958年)、百福が48歳のときにこの発明によって世界で初となるインスタントラーメンを完成させました。また、麺を油で揚げる際にバラバラにならないように、金網の様な型にはめて揚げる手法が考案されました。この一連の製法は「瞬間油熱乾燥法」と名付けられ、昭和37年(1962年)に特許を取得しました。
この時に発明されたチキンラーメンは、瞬く間にヒットしました。しかし、大ヒットが原因となり模造品が次々と誕生することとなります。百福はそのような問題を解決するために、61社と契約を結び特許を公開することを決めました。昭和39年(1964年)には、業界をまとめた「日本ラーメン工業協会」を設立しました。
カップラーメンを代表する「カップヌードル」の開発し、世界中を職で平和にすることに向かって尽力してくれました。
平成19年(2007年)、急性心筋梗塞のため満96歳でこの世を去りました。
百福が開発に尽力したチキンラーメンは、アメリカや中国、インドネシアなどで販売されています。そして各国になじみのあるようなテイストにアレンジされており、現地の方から人気となっています。まさに、食で平和を実現するという有言実行を果たしてくれました。

今回は世界で初となるインスタントラーメンの開発に尽力した日清食品の創業者である、安藤百福の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。料理が面倒なときや晩酌後の〆、ちょっとジャンクなものを口にしたいときにお世話になってきた方も多いのではないでしょうか。終戦後の貧しい時代に平和を実現したいという想いから取り組んだ開発でしたが、それは実現され日本のみならず世界で愛される食品へと成長しました。今後海外でチキンラーメンやカップヌードルを見かけた際には、その国限定の味にも挑戦してみたいですね!

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