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【SKIPの知財教室(IP Hack)】一旦廃止になった日本の特許制度を復活させた 前田正名(東京農林学校長、貴族院議員を歴任)

2022.03.04

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私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。また、私たちの生活がこれほどまでに豊かになったのは発明品を保護し、産業の発展に寄与させる制度である「特許法」が定められているからです。かつて、欧州で執行されていた特許法を参考に日本で初の特許法が制定されたのが明治4年(1871年)です。そこから順調に産業発展していくと思いきや、執行当初は特許法がうまく機能せず、わずか1年での執行停止となっていました。その結果、偽ブランド品や模造品が数多く出回るようになり、モラル低下や品質低下が問題となっていました。世論として再び特許法の制定が叫ばれる中、再開に向け尽力した人物が当時大蔵省・農商務省の大書記官を務めていた前田正名(まえだまさな)でした。彼が特許法を再開するために尽力したことにより、現在の安定した特許制度へと生まれ変わりました。そこで今回は日本の特許制度再整備に向けて力を注いだ人物、前田正名の生涯について振り返っていきます。

前田正名の生涯(幼少期からフランス留学)
前田正名は、日本の農商務省の官僚として、さらに在野で産業運動に尽力した人物として知られています。今回はそんな前田正名の生涯を振り返っていきましょう。
前田正名は嘉永3年3月12日(1850年)に、薩摩国鹿児島の藩医(江戸時代に藩に仕えた医者)の子供として誕生しました。幼いころには緒方洪庵門下の八木称平に洋学を学んでいました。そして当時八木称平が力を入れていた琉球密貿易の手伝いをしながら生活をしていたそうです。
慶応元年(1865年)には長崎にいた何礼之(幕末から明治時代にかけて活躍した日本の翻訳家、幕臣、官僚、教育者)が営んでいた語学塾に藩費留学をしました。残念ながら薩摩藩第一英国留学生(日本を密出国しイギリスへ渡った19人の薩摩藩士から成る使節団のうち現地で学んだ15名を指す)の選抜には漏れてしまいました。しかし、五代友厚(幕末から明治時代の武士、実業家)から非常に大きな影響を受けたそうです。翌年の慶応2年(1866年)には薩長同盟の密使となり、坂本龍馬(幕末の土佐藩士)から短刀をもらっています。
明治元年(1868年)には高橋新吉と前田献吉と共に「和訳英辞書」を発行しました。その後1869年(明治2年)、正名は在フランス総領事モンブラン伯爵(フランスの貴族、実業家、外交官)に随行し、パリ留学へ留学しました。フランスへの留学中に、普仏戦争などを目の当たりにした正名は、その時に「日本が欧州に追いつくことは可能だ」と感じたと言います。
1875年(明治8年)に正名はフランス公使館2等書記生に就任しました。そして、その後はユジューヌ・チッスラン(フランスの農業経済学者)に師事して、農政と農業経済への学びを深めました。フランスへの留学も長くなり、内務省勧農寮御用掛に任命された正名は、1876年(明治9年)に帰国命令を受け翌年明治10年に帰国しました。

日本初の特許制度の失敗
一方、正名がフランスへ留学している間の日本では、明治4年(1871年)に初の特許法である専売略規則が布告されていました。この専売略規則は、当時特許制度が確立していた西ヨーロッパを参考にし、殖産興業や富国強兵策のための技術向上を目的として作られました。しかし、専売略規則がうまく機能することはなくなんと1件も政府から許可が下りることがないまま、翌年の明治5年(1872年)に執行停止に追い込まれました。その後の日本国内には、偽ブランド品や模倣品が多く出回り品質や技術の管理・向上はおろか、商工業のモラル低下が問題となっていました。さらに、日本産の品質低下によって、織物、漆物、陶器などの重要な伝統的工芸品の輸出にも悪影響が及んでいました。その問題を知った正名は、「一度頓挫してしまった特許制度を再整備して粗悪品の取り締まりを強化する必要がある。」と考えていました。
さらにこの状況に対し、全国から専売特許制度制定の建白書が何枚も提出されるなど、世論としても特許法の再執行が待ち望まれていました。結果として、再執行の希望する声が多くなったことから特許制度再開の準備が開始されていきました。

前田正名の生涯(高橋是清とともに特許制度を再開)
特許法の再開に向けて動いていたのが当時の農商務省公務局調査課の高橋是清(後の初代特許庁長官)でした。明治16年(1883年)には「大日本帝国特許條例按心得」を作成していました。また、その年に正名は森有礼(日本の政治家、外交官、思想家、教育者)の紹介により是清と出会いました。是清と出会ったことによって正名は大きく影響を受け、日本が本格的に特許制度を整備する上で大きなターニングポイントとなりました。是清は欧米に視察へ向かって特許法に関する情報を集めるなどしていました。そして正名はそんな是清と日本の産業発展に向けて活発な議論を継続しました。
長い議論の末正名は、「地方産業の衰退を踏まえると、外国からの最新技術の輸入よりも、外国から評価を受けていた地方の伝統産業保護が優先だ」と確信するようになりました。正名と是清は「特許を与えると模倣品が作れなくなる」という反対意見を承知の上で、伝統産業を護るため特許法制定に向けて動きました。
このような努力の後、明治18年(1885年)の4月2日、専売特許条例布告案が大勢大臣に上奏され、同月の18日に公布が叶いました。
その後は特許法がしっかりと機能し、発明品が保護され発明家が利益を得られる環境へと変化していったことから、産業が発展していきました。明治21年(1888年)の12月に出された官報には「特許発明実施ノ状況」が掲載されました。専売特許条例の執行から明治20年6月までに特許が認められた発明に関する状況が調査されていました。
明治22年(1889年)には農商務省農務局長と東京農林学校長を兼任することとなりました。さらに、明治31年(1898年)には宮崎県にある開田事業と一緒に、北海道釧路市で初のパルプメーカーであった前田製紙合資会社を設立し、明治37年(1904年)には明治23年に次ぐ2回目の貴族院議員になりました。明治40年(1907年)には釧路銀行を設立し、北海道東部の開発に貢献しました。
大正10年(1921年)、前田正名は多くの功績を残してこの世を去りました。
様々な意見が飛び交う中、日本の産業向上のため特許法の再開に向け尽力した正名の行動があったからこそ、今のような豊かな世の中があるといっても過言ではありません。彼の功績を称え、地元のKTS鹿児島テレビでは2019年にドラマ「前田正名―竜馬が託した男」が放送されました。

今回は一度失敗した日本の特許制度の再開に向け尽力した人物、前田正名の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。今では一般的となった特許法の考え方ですが、欧州から特許法を導入したばかりのころ、日本では特許制度がうまく機能せず悲惨な状況となっていました。偽ブランド品や模倣品が出回ったことから、地方の伝統的工芸品などが被害を受け、衰退していた状況を活性化させようと動いたのが前田正名でした。彼は特許制度の再開に向け尽力していた、後の初代特許庁長官の高橋是清と協力しながら、特許制度を再確立させました。その後の日本では特許法のおかげで、発明品が保護され、発明家への利益が保証され、多くの発明が生まれる環境へと変化していきました。もしも当時、正名たちが特許法再開に向け動いていなければどうなっていたでしょうか。日本の産業や経済の発展は著しく遅れていたことでしょう。苦労した先人たちのおかけで今の私たちの豊かな生活があります。今後の更なる発展が楽しみですね。

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