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【SKIPの知財教室(IP Hack)】「西洋雑誌」で特許制度を紹介 神田孝平(幕府蕃書調所教授、貴族院議員を歴任)

2022.02.25

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。また、私たちの生活がこれほどまでに豊かになったのは発明品を保護し、産業の発展に寄与させる制度である「特許法」が定められているからです。かつて、欧州で発明された技術に対して、大金を払い学び日本に伝えた人々がいました。しかし、当時の日本では彼らに対する利益が保証されていませんでした。外国との交流が活発になりモノや技術のやり取りが始まったばかりだったからこそ、そのような問題が発生していました。そのような背景で、外国との貿易において特許法の重要性を世の中に広めたのが、神田孝平(かんだたかひら)です。孝平は「西洋雑誌」にて外国の特許制度を紹介し、国内での特許制度を身近なものにしました。そして、特許法の確立により、外国からの伝習者が保護され更に日本の産業の発展に繋がったとされています。そこで今回は日本の特許制度の確立に尽力した神田孝平の生涯について振り返っていきます。

神田孝平の生涯(幼少時代と欧州への遊学)
神田孝平は、漢学・蘭学を素養としながら、政治・経済・法律・数理・文学・人類学・天文学への学びを深めた人物です。そして同時期に様々な分野で功績を残したことで有名な福沢諭吉(幕末から明治に活躍した日本の武士・啓蒙思想家・教育者、慶應義塾の創設者として知られている)とも友人でした。日本の特許制度に貢献したことでも知られる諭吉ですが、孝平も同様に「西洋雑誌」において、海外の特許制度事情を解説しました。その内容が日本中に広まり特許制度の重要性が理解されるようになりました。今回はそんな神田孝平の場外を振り返っていきましょう。
神田孝平は、戦国時代の豊臣秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛の子孫の竹中家家臣の神田孟明の側室の子どもとして、天保元年(1830年)美濃国不破郡岩手村(現在の岐阜県不破郡垂井町岩手)に誕生しました。孝平は幼いころから勉学への興味が高かったと言います。村の儒者国井喜忠太が開いていた塾に通っては、習字素読を受けていました。
孝平が17歳の弘化3年(1846年)には、京都へ行き伊奈遠江守に仕えました。その翌年には牧百峯の下で漢字の学習に注力していました。3年後の嘉永2年(1849年)には、仕えていた伊奈遠江守が勘定奉行(江戸幕府の役職の1つ、勘定方の最高責任者で財政や幕府直轄領の支配を司る役割)に転じることとなり、それを機に孝平も江戸へ移りました。
翌年の嘉永3年(1850年)には塩谷宕陰と安積艮斎のもとで漢学を学び始めました。嘉永4年(1851年)には永井介堂に付き遊学していましたが、その最中に祖父の神田柳渓がなくなり、実家の岩手に戻りました。嘉永6年(1853年)には再び江戸へ移り、松崎慊堂のもとで漢籍(中国大陸で著された書籍であり、一般的に漢文で記された書物全般を指している。または日本で著された和書に対応する分類として用いられる)を学びました。
また、この頃は黒船が来航した時期でした。同年にペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船4隻が浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航しました。孝平自身ペリーの来航に非常に衝撃を受けており、さらに再び江戸で遊学しました。その時には杉田成卿・伊東玄朴のもとに付き蘭学を学び始めました。その後は安政2年(1855年)に手塚律蔵の「又新塾」へ通いさらに蘭学を深めました。
安政4年(1857年)には高島秋帆(江戸時代後期から末期の砲術家、西洋式の大砲を打つ技術に精通していた)の下を訪ねて秋帆が蘭学を志した動機を知りました。そのことがきっかけとなり、孝平は益々洋学への学びに尽力することとなりました。
更にその後は友人であった福沢諭吉と長崎へ遊学して、和蘭文典書に詳しい人物の下で文典を研究し多くの知識を習得することとなりました。

神田孝平の生涯(著書「西洋雑誌」の誕生と特許法の制定)
孝平は洋学を深めていく中で一つ興味を持った分野があります。それが「特許制度」です。日本で特許制度が始まったのは明治18年(1885年)です。そのため、当時の日本には素晴らしい発明をしたとしても発明が保護されることも発明家が利益を得られる保証もありませんでした。もともと特許制度の起源は、1443年にヴェネチアで公布された「発明者条例」だと言われています。その後ヨーロッパ諸国を中心として、「意匠権」「専売条例」「著作権条例」などの特許制度の基盤が確立されていきました。孝平らが蘭学などの洋学を学んでいたころには、既に特許制度が普及していたというわけです。
孝平は特許制度に関して興味を持ち、発明を3つに分類しました。以下引用
『先ず諸新奇の事を分つて三大類となし、第一は万国未曾有の事を発明せし者、第二は他国にて発明せし事を始て自国に学び伝えしもの、第三は古来有来の事に改正を加え足るものなり』
簡単に言い換えると、「第一に世界中で初の発明をした者」、「第二に外国で発明された技術を学び日本国内に伝えた者」、「第三に既にある発明品に改良を加えた者」の3つです。孝平は上記3つのうち特に2つ目に着目しました。例えば、日本にはない技術を西洋諸国から学び伝えた場合にその利益はどう守られるのでしょうか。鎖国を続けていた日本にとって海外との交流が少なかったため、貿易関係の決まりが著しく欠落している状況でした。今後外国との貿易は活発になっていくと考えた孝平は、外国との貿易において国益を守るためにも、特許法などの法整備が重要になってくると確信していました。
この内容に関して孝平は、慶応3年(1867年)に創刊された雑誌「西洋雑誌」において、必要性を解説していました。具体的には下岡蓮杖(横浜を中心に活躍した日本最初期の写真家)の事例を取り上げました。蓮杖は下田にて写真術を伝習するために大金を払いました。しかし、その後蓮杖の競争者が出現したため、結局蓮杖は元手を回収することが出来ませんでした。この出来事は特許法の整備がされていなかったため発生した代表的な事例です。もしも当時特許法が整備されていれば、蓮杖のような伝習者は保護され利益を得ることが出来たでしょう。
世間からも特許法の整備が必要だと認識されたことから、明治4年(1871年)に日本で初めて特許法である専売略規則が制定されました。その時の内容も孝平が記した西洋雑誌の内容と似通っていたことから、特許制度の制定において大きく影響を与えたと考えられています。伝習者の保護と得られる利益により、国の発展に繋がる発明を学ぶ人が増えるきっかけとなりました。
その後は貴族院議員に選出されるなど政治家として活躍しました。明治31年(1898年)、神田孝平は骨髄病によりこの世を去りました。

今回は特許法の制定に尽力した人物の神田孝平の人生をご紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。日本が世界のリーディングカントリーのひとつとなれた背景には、急激な産業の発展があります。そしてそれは、革命的な発明が保護され発明家が利益を得られる法律である特許法が制定されているからです。かつての特許法が制定されていなかった日本は、発明や発明家、そして発明の伝習者が守られる環境ではありませんでした。この状況に対して、欧州の特許制度を学び日本国民に特許制度の重要性を周知した一人が神田孝平でした。今や当たり前となった特許制度の考え方ですが、誕生秘話を知るだけでも今後の物事への見方が変化するのではないでしょうか。今後は、日本国内・世界中でさらに変革をもたらす発明が誕生すると予想されます。これからの生活がどう変化するのかとても楽しみですね。

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