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【SKIPの知財教室(IP Hack)】初代特許庁長官 高橋是清(内閣総理大臣+日銀総裁も歴任)

2022.02.11

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私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。また、私たちの生活がこれほどまでに豊かになったのは発明品を保護し、産業の発展に寄与させる制度である「特許法」が定められているからです。明治7年ごろの日本では、著作を保護する制度は存在していましたが、発明や商標を保護する制度は存在していませんでした。そのため、日本では海外の発明品をまねて作られた製品を、あたかも海外からの輸入品のように取り扱う習慣が日常でした。もちろんこれらは海外の発明家たちはよく思っていませんでした。さらに日本の発明力も伸びず、産業の面で世界から遅れをとっていました。そんな時に発明品を保護し、産業の発展に寄与することを目的に法整備を整えたのが高橋是清(たかはしこれきよ)です。彼は特許法を作り、初代特許庁長官に就任した日本の財政家・政治家です。彼が特許法を整備したおかげで日本の産業の力は世界に追いつき、大きく発展していきました。今回は高橋是清の生涯を振り返っていきましょう。

高橋是清の生涯(特許法の整備まで)
高橋是清は安政元年(1854年)に、江戸の芝露月町(しばろげつちょう、現在の東京都港区芝大門)というところに誕生しました。是清は生後間もなくして仙台藩(江戸時代から明治初期にかけて陸奥国仙台城に藩庁を置き、伊達氏本家が治めていた)の足軽高橋覚治の養子となりました。
その後是清は、アメリカ人医師のヘボンの私塾であった明治学院大学へ進学し学びを深めました。慶応3年(1867年)には藩命によって、是清は14歳で勝海舟の息子であった小鹿と一緒に海外留学に挑みました。
しかしながら、当時横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リードに学費や渡航費を着服されてしまいました。それだけにとどまらず、是清のホームステイ先では、ホストペアレンツにまんまと騙され年季奉公(一定期間働く雇用制度、住み込みだが給料は出ないもしくは極少額)の契約書にサインしてしまいました。結果としてオークランドのブラウン家に売られてしまい、奴隷として扱われました。しかし、当の本人は奴隷になっていることに気づかず、きつい勉強だと思い苦労しながら、英語を習得した留学生活だったようです。
留学を終えた是清は明治元年(1868年)に帰国しました。明治6年(1873年)には、留学先で知遇を得た森有礼の推薦により、文部省に入省し十等出仕となりました。
是清が専売特許や商標登録に興味を持ちだしたのは明治7年(1874年)ごろでした。是清は当時文部省にて、教育制度確立を目的として雇用されていたアメリカ人のモーレー博士の通訳担当をしていました。
また、同時期にヘボン博士が辞書を日本で再販しようとしていました。その際に版権(著作物を複製・販売する際の独占権)の取得に関して、モーレー博士に相談がありました。当時の外国人に対しては治外法権が存在していました。そのため日本の法律が彼らに及ぶことはなく、彼らの母国の法律のみが適用される状態でした。つまり、これはヘボン博士らが辞書を再販しても保護されることがないという状態です。これに関して是清はモーレー博士にあることを言われました。「日本には著作を保護する版権はあるが、発明・商標を保護する規定がない。外国人は、日本人が外国品をまねたり、商標を盗用したりして模造品を船来品のようにして販売することをとても迷惑している。アメリカでは発明、商標、版権の3つを智能的財産(Three intellectual properties)と称し、最も重要な財産としている。日本でも発明・商標を保護する必要がある。」と言われました。このとき是清はこの言葉を聞き、工業製品に対する所有権の大切さに気付きました。その後、大英百科事典の概略を頼りにして、発明や商標に関する研究を開始しました。この出来事が、後に特許法を確立する大きなきっかけとなりました。
この出来事の後、是清は商標登録と特許制度の制定に向けて本格的に動き始めていました。しかし、そう簡単に事は進みませんでした。実際に暖簾と商標(自己の商品やサービスを他の商品やサービスと識別することを可能にする標識)を混同する問題が発生していました。東京商業会議所によれば暖簾は、「長く忠勤した番頭にその主家から分け与えられるもの」であり、それを他人が一切利用できなくするということは商習慣には反していました。
しかし、是清の奮闘もあり、しばらくして両者の区別が理解されるようになりました。東京商業会議所では商標条例制定が賛成となり、明治17年(1884年)に商標条例が発布されました。一方で、特許制度の制定に関しては反対意見が多くありました。理由としては、発明専売略規則制定の際に、発明の審査員不足、海外から審査員を雇うにしても費用が発生するということから執行停止になっていた背景が挙げられます。そんな中で、当時海外から帰国した森有礼の協力もあり、明治18年(1885年)に何とか専売特許条例が制定されることになりました。
その後、是清は外国での制度を調査する目的で欧米に視察に向かいました。そこでは特許制度に関する資料集めに尽力しました。米国特許院では毎週1回、判決録などを記した資料を発行していました。是清はこれらの資料を無料で5年分貰って参考にしようと考えました。しかし、簡単に渡してはもらえず、日本での判決録などの資料5年分と交換という形で決まりました。もちろん、その時に日本では特許制度に関する日本版の資料など存在していなかったため、出版後に送付するということで認めてもらったようです。

高橋是清の生涯(特許法整備後の活躍)
特許法の制定後に版権などに関する治外法権について、不平等条約の改定の際に問題となりました。明治21年(1888年)に農相大臣だった井上馨は、新式の輸入機械を保護する目的で、初めて輸入した者に対して専売特許を付与する法律を制定することを是清に指示しました。しかし、是清はイギリス滞在中に聞いたこととして「条約改正では日本が外国に求めるべきものは多くあるが、外国から日本に求めるべきものは少ない。発明の保護は決定せずに、条約改正の際にうまく利用する方が日本のためだ。」と井上馨に話しました。結果的に井上馨も法律制定を見送ることに納得し、その時には制定されませんでした。
その後の明治27年(1894年)には日露戦争に勝利したことで、日本は列強に認められました。そしてその年に不平等条約が改正されました。明治29年(1896年)に日本で外国人が特許出願できるようになり、明治32年(1899年)にパリ条約に加盟しました。
特許制度が制定されて50年を迎えた昭和11年(1936年)に、NHKラジオが「特許制度が始まった頃について」というテーマで是清に主演依頼を出しました。しかし、ラジオ出演を嫌っていた是清はこの依頼を断りました。どうしても依頼を受けてほしかったNHKラジオは、およそ300人の観客で「講演会」と称し、講演席に多少物を置かせてもらうという約束でようやく承諾を得られました。しかし、本当はラジオであり、当日講演会場に行って初めて状況を把握した是清は応じざるを得ず、是清は初めてラジオ講演を行うこととなりました。当時非常に重要度の高かった漁船速報を中止し是清のラジオ放送をしたことからも、是清のラジオ出演がどれだけ珍しい出来事だったかが分かるのではないでしょうか。また、この講演会は非常に珍しい機会ということもあり、速記でメモが取られていました。そして会場の出口でそのメモは配布されており、多くの人を驚かせたようです。
また、是清には面白いエピソードも残っています。ある発明狂が棺桶の特許出願を行って拒絶されたときの話です。その発明狂は納得できず特許局に抗議しに行ったようですが、その際に是清は彼に追いかけられ、テーブルを7周半も逃げ回ったようです。
日本の産業の発展のために特許法の制定に尽力した是清ですが、このように興味深いエピソードもある人物でした。
昭和11年(1936年)の二・二六事件にてこの世を去りました。

今回は初代特許庁長官の高橋是清の人生を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。彼が特許法の基礎を構築したため、日本の産業は大きく発展し豊かな生活を送れるようになりました。是清は苦労した話もあればユニークで興味深い話もあるような人物でした。普段は気にしたことのない特許法の制定に関する話だったかもしれませんが、知っているとこれからの様々な物事への見方も変わってくるのではないでしょうか。

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