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【SKIPの知財教室(IP Hack)】日本の十大発明家 三島徳七(MK磁石鋼の発明家)

2022.02.04

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。そこで、日本政府は、歴史的な発明家として永久に功績を称えるにふさわしい10名を学識経験者の方々に選出していただき、選ばれた10名を十大発明家としました。今回はその一人、「三島徳七(みしまとくしち)」についてご紹介します。私たちの身の回りにあふれている家電やデジタルデバイスには磁石が含まれています。普段の生活では気づくことは少ないですが、磁石は私たちの生活から切り離せない存在となっています。かつて、科学技術の発展に大きく影響を与えたのが、アルニコ磁石の基本となったMK磁石鋼です。MK磁石鋼は従来の磁石に比べとても安価であり、経年変化なども小さいことから重宝された磁石です。そんなMK磁石鋼を発明したのが三島徳七です。今回はMK磁石鋼を発明した三島徳七の生涯を振り返っていきましょう。

三島徳七の生涯(誕生からMK磁石鋼の発明まで)
三島徳七はアルニコ磁石(鉄にアルミニウム(Al)、ニッケル(Ni)、コバルト(Co)などを原料として鋳造された磁石)を発見し、その一つに属するMK鋼を発明したことで知られる日本の金属工学の学者であり、日本を代表する発明家です。徳七が発明したMK鋼は永久磁石の中でも非常に革命的な磁石です。これは現在でも幅広く使用されているアルニコ磁石の基本となりました。徳七の発明によって科学技術が著しく発展し私たちの生活が豊かになったことは言うまでもありません。では早速、MK鋼を発明した三島徳七の生涯を振り返っていきましょう。
三島徳七は明治26年(1893年)に兵庫県津名郡広石村下組(現在の洲本市五色町広石下)で農家を営んでいた父・喜住甚平の5男として誕生しました。明治40年(1907年)には広石尋常高等小学校を卒業し、幼少期を過ごしていました。その後、明治44年(1911年)には立教中学校(東京都豊島区、小中高大一貫教育を行う私立男子中学校)の編入試験を受験し、独学での入学を果たしました。
中学校を卒業してからは、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部などの前身となった旧制高等学校)と、東京帝国大学工学部冶金学科で学びを深め、大正9年(1920年)に卒業しました。大学卒業後は、冶金学への理解を深めるため東京帝国大学で助手、講師の経験を経て助教授となり研究を続けました。
大正11年(1922年)に徳七は後藤正治と共同研究を行い、アルミニウムの二元・三元合金の状態図作成に関する研究を行っていました。それらの研究成果が認められたのが昭和3年(1928年)、「ニッケル及びニッケル鋼合金の焼鈍脆性」の研究で、工学博士を取得しました。
その後も、徳七は研究を継続していましたが、昭和5年(1930年)に磁石鋼の磁石の理論的解明を進めているときに大きな発見をしました。徳七は無磁性のニッケル鋼にアルミニウムを添加することで、ニッケルの磁性が回復し強力な永久磁石となることを見つけました。この発見により徳七は磁石鋼に関する興味が強くなり研究を進めることになりました。
その後研究を継続した結果、先述の磁石鋼にコバルトや銅を加えるなど改良を繰り返し、昭和7年(1932年)についに強磁性合金(強磁性の永久磁石)を発明しました。この磁石は、残留磁気及び抗磁力が高く、これまでの焼き入れ型磁石とは違い析出硬化型であったため安定性に優れていました。また、この磁石の特徴として磁性の温度変化や経年変化が小さいことも挙げられました。徳七はこの強磁性合金を三島と旧姓の喜住の頭文字をとってMK鋼と名付けました。そしてMK鋼はその価値が認められ特許権を取得しました(特許第96371号)。
その後、MK鋼は発電、通信機、スピーカーなど様々な分野にて使われるまでになりました。

三島徳七の生涯(MK磁石鋼の発明以降の活躍)
MK鋼を発明した後徳七は、昭和13年(1938年)に東京帝国大学工学部冶金学科の教授に就任しました。また、徳七はこれまでの功績が評価され、昭和24年(1949年)に日本学士院会員を拝命し、翌年昭和25年(1950年)には文化勲章も受賞し、千葉工科大学の理事に就任しています。さらに昭和28年(1953年)には東京大学(かつての東京帝国大学)を退官して名誉教授に就任しました。
また、この頃徳七は各種機関で非常に重要な役職を歴任していました。日本鋳物協会会長、日本シェルモールド協会会長、綜合鋳物センター会長、新技術開発事業団開発審議会会長、日本鉄鋼協会会長、日本金属学会会長、日本学術会議会員などが挙げられます。
加えて、1957年(昭和32年)にはアメリカ金属学会アルバート・ソーバー功労賞受賞、1962年(昭和37年)にはイタリア金属学会ルイジ・ロサーナ章、昭和41年(1966年)勲一等瑞宝章、昭和42年(1967年)には日本鉄鋼協会本多記念賞など多数の輝かしい賞を受賞しています。
昭和50年(1975年)、徳七は惜しまれながらこの世を去りました。そして同年には勲一等旭日大綬章追贈されました。

三島徳七の代表発明品
三島徳七は従来の永久磁石に比べて革命的な発明だったMK鋼を発明した、日本を代表する発明家でした。ここでは徳七が発明したMK鋼について詳しくご紹介していきます。
徳七は東京帝国大学にてニッケル鋼の特殊な性質に関する研究を行っていました。研究中の昭和6年(1931年)、新たな理論研究の末、析出分散硬化型という新しい理論展開によって、ニッケル鋼にアルミニウムを添加して磁性が回復することを見つけました。この磁石は従来の永久磁石に比べて強力なものであり、この磁石鋼をMK鋼と名付け特許を取得しました。
MK鋼については日本国内のみならず海外でも積極的に特許取得に踏み切りました。その結果、日本では東京鋼材株式会社、欧州エリアではボッシュ社、米国においてはGE社に対して実施権を与え、MK鋼の世界的な工業生産を可能にしました。
MK鋼が発明されたのは昭和6年(1931年)でしたが、少し前の大正6年(1917年)に本多光太郎(KS鋼・新KS鋼を発明した日本の金属工学者)によってKS鋼と呼ばれる世界初の永久磁石が発明されていました。KS鋼は、コバルト・タングステン・クロム・炭素を含んでいる鉄の合金磁石鋼であり、当時は世間から非常に注目を集めていました。しかし、徳七の発明したMK鋼はKS鋼に比べ材料費用、製造費用共に安く済ませることに成功していました。さらにKS鋼のほぼ倍の強さである500エルステッド(磁場の強さを示す単位)以上の保持力を有していました。それに加えて、温度変化や振動に対して強く、安定しているという点からMK鋼は瞬く間に世界規模で利用されるようになりました。MK鋼は電子機器や通信機器はもちろん、航空機や自動車などのインフラ、各種計測器や制御装置などにも使用され、様々な分野の発展に大きく貢献しました。

今回は革命的な永久磁石であるMK鋼を発明した日本を代表する発明家、三島徳七の人生を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。MK鋼は従来の磁石鋼にはない強みを有しており、世界的に安定的に生産できる体制を整えたため、世界的に普及していきました。これまでは磁石と聞いても実際にどこで使われているかピンとこなかったという方もいたかもしれません。しかし、実は誰もが持っているスマートフォンなどの電子デバイス・通信機器、自動車そのほか様々な製品に利用されています。彼の発明によって私たちの生活は非常に豊かなものに変化しました。今後も磁石分野に限らず、たくさんの発明が誕生することでしょう。そのたびに私たちの生活は豊かに変化すると思われます。数年後、数十年後の世界がどうなっているかとても楽しみですね。

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