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【SKIPの知財教室(IP Hack)】日本の十大発明家 八木秀次(八木アンテナの発明家+大阪帝国大学総長)

2022.01.21

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。そこで、日本政府は、歴史的な発明家として永久に功績を称えるにふさわしい10名を学識経験者の方々に選出していただき、選ばれた10名を十大発明家としました。今回はその一人、「八木秀次(やぎひでつぐ)」についてご紹介します。私たちの生活に密着しているテレビは地上波放送の受信アンテナによって、視聴できています。この受信アンテナの仕組みを発明したのが八木秀次です。彼は八木アンテナを発明し、第二次世界大戦では相手国のレーダー用のアンテナに使用されるなど、世界から価値を認められた発明家です。八木アンテナの発明により、テクノロジーは急速に大きく発展し、私たちの生活はより豊かになりました。今回はそんな八木アンテナを発明した日本の発明家八木秀次の生涯を振り返っていきましょう。

八木秀次の生涯(誕生から八木アンテナの発明まで)
八木秀次は欧米での無線通信に関する電波発生の研究に尽力し、八木アンテナという電波指向方式を発明した日本を代表する発明家です。世界中からその発明が評価され各地で利用されました。その後の日本の経済発展、世界の経済発展に大きく貢献した人物です。今回は八木アンテナを発明した八木秀次の生涯を振り返っていきます。
八木秀次は明治19年(1886年)に大阪府大阪市東区北浜4丁目で、父・忠兵衛、母・みちのもとに三男として誕生しました。秀次は大阪市愛日尋常小学校、第四高等小学校、大阪府第一中学校(後の北野中学校)に入学し幼い時間を過ごしました。明治36年(1903年)には中学校を首席で卒業するなど大変優秀でした。同年には第三高等学校理科に入学しました。さらにその後の明治39年(1906年)には東京帝国大学工科大学電気工学科に入学し学びを深めました。そして秀次はこの時に無線に興味を持ち始め、大学での学びがのちのアンテナ発明のきっかけとなりました。
大学を卒業後は、山川義太郎(日本の電気学者)のもと、仙台高等工業学校の講師となりました。そして秀次は東北帝国大学理科大学の本多光太郎(日本の物理学者、KS鋼・新KS鋼を発明したことで有名)の知遇を得て、その後長岡半太郎(日本の物理学者、土星型原子モデルを提唱したことで有名)にその知恵を継承しました。そして、本多光太郎と長岡半太郎から推薦を受け、秀次は海外留学を決めました。
1913年にはドイツのドレスデン工科大学に行きバルクハウゼン教授(ドイツの物理学者、強磁性体のバルクハウゼン効果などで有名)の教えの元、研究を行いました。翌年1914年にはスイスで研究を行っていましたが、第一次世界大戦の影響でロンドンに移ることになりました。ロンドンではフレミング教授(イギリスの物理学者、フレミングの法則を考案したことで有名)の元、研究しさらに無線への興味が強くなっていました。1915年にはハーバード大学のピアス教授の下でも研究を行いました。
秀次は大正5年(1916年)の帰国後に弱電と呼ばれる通信利用分野に関する研究に尽力しました。当時電気工学では強電と呼ばれる電力工学に関心が集まっていました。そのため、秀次が研究していた弱電は発展途上の分野でした。大正8年(1919年)には東北帝国大学工学部の設立に携わりました。同時に教授となり工学博士を取得しました。
秀次は将来、短波や超短波による通信が主力になるに違いないと感じていました。そのため、研究の継続と熱心な指導を行い、大正14年(1925年)には「短波長電波の発生」、「短波長による固有波長の測定」などの論文を執筆し発表しました。これらの論文では、八木アンテナの基礎となる「電波志向方式」を発明しました。大正15年(1926年)に八木アンテナは特許権を取得しました(特許第69115号)。
しかし、八木アンテナは日本において考え方が普及する前であったため、当初は理解されませんでした。その一方、欧米各国からは八木アンテナの価値がいち早く評価され、先に欧米での実用化に至りました。
八木アンテナの理論的な構造は、非常に単純な構成で電波の指向性通信を可能にしたものでした。超短波、極超短波で使われているアンテナは、現在でも基本的にこの方式が使用されています。私たちの生活を豊かにする基礎を作り上げた一大発明でした。

八木秀次の生涯(八木アンテナの発明以降の活躍)
八木アンテナ発明後は昭和4年(1929年)に東北帝国大学工学部の学部長を務めました。昭和12年(1937年)には電気通信学会会長、昭和15年(1940年)には電気学会会長、昭和17年(1942年)には東京工業大学学長に就任しました。その後昭和18年(1943年)には日本音響学会会長、同年の10月には興亜工業大学(現在の千葉工業大学)の顧問教授だった本多光太郎の後任として相談役に就任しました。昭和19年(1944年)には内閣技術院総裁に就任、昭和21年(1946年)には大阪帝国大学総長に就任しました。しかし、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部、ポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍機関のこと)の公職追放者指定を受け、辞職することになりました。同年に秀次は日本アマチュア無線連盟の会長に就任しました。その後は昭和26年(1951年)には大阪大学名誉教授、そして民主社会種連盟の会長に就任しました。翌年の昭和27年(1952年)には八木アンテナ株式会社の社長にも就任しました。さらに昭和49年(1976年)には東北大学の名誉教授に就任しました。
八木秀次は昭和51年(1976年)1月19日に89歳でこの世を去りました。
彼の発明した八木アンテナは日本において価値が認められるには時間がかかりました。しかしその後は世界中から評価され、現在もなおそのシステムは使用されています。このような功績が広く称えられ、勲四等瑞宝章、勲三等瑞宝章、勲二等瑞宝章、勲一等瑞宝章、藍緩褒賞(八木アンテナが評価されたもの)、文化勲章、旭日大綬章など非常に多くの賞を受賞しました。
平成28年(2016年)には八木秀次の生誕130周年を記念してGoogleのロゴマークが、彼にちなんだ限定マークに変更されました。

八木秀次の代表発明品
八木秀次は八木アンテナを発明し、私たちの生活水準を大きく引き上げた日本を代表する発明家です。ここでは彼の代表発明品である八木アンテナについて解説していきます。
八木アンテナは東北帝国大学時代に、助手であった宇田慎太郎博士と共に発明した指向性アンテナ(アンテナの向きによってレベルが異なるアンテナ)です。実は構造としては非常に単純なものでしたが、高い利得が得られる画期的な発明品でした。超短波・極超短波で使用されている地上波放送の受信アンテナなどはほとんどが八木アンテナであり、現在も使用されています。
しかし、実は八木アンテナが発明された当時、日本において八木アンテナの理論はまだ普及していませんでした。そのため、発明直後の大正15年(1926年)ごろの日本国内では八木アンテナは価値が理解されませんでした。一方比較的無線の学問として進んでいた欧米諸国では、八木アンテナの価値が認められいち早く実用化されるところにまで至っていました。そして、1939年から始まった第二次世界大戦において、相手国が使用していたレーダー用のアンテナに日本兵が関心を示し、実はそれは日本人の八木秀次が発明した八木アンテナだと判明しました。このことがきっかけとなり日本国内においても価値が評価されはじめたようです。

今回は八木アンテナを発明した八木秀次の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。欧米で研究を重ねた経験から素晴らしい発明をしたにもかかわらず、日本国内では理解されなかったとは驚きでしたね。しかし、八木アンテナは世界中で価値が認められ、発明から100年近く経とうとしている現在でも使用されるほど価値のあるものです。数々の発明品の誕生により、私たちの生活は非常に豊かになってきています。これからのテクノロジーの発展で生活がどう変化していくのかとても楽しみですね。

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