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【SKIPの知財教室(IP Hack)】日本の十大発明家 鈴木梅太郎(ビタミンB1とビタミンAの発明家)

2021.12.24

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。そこで、日本政府は、歴史的な発明家として永久に功績を称えるにふさわしい10名を学識経験者の方々に選出していただき、選ばれた10名を十大発明家としました。今回はその一人、「鈴木梅太郎(すずきうめたろう)」についてご紹介します。私たちが健康を維持してく上でよく耳にする栄養素が「ビタミン」です。鈴木梅太郎はビタミンB1(オリザニン)とビタミンAを発見し、のちにその分離に成功した日本を代表する発明家です。当時の食生活でビタミンB1不足により多くの人が脚気(かっけ)という病に苦しみ、多くの人を死に追いやりました。しかし、梅太郎がビタミンB1の単離に成功したことで、脚気に苦しむ人は激減していきました。そこで今回は多くの人を病から守った鈴木梅太郎の生涯を振り返っていきましょう。

鈴木梅太郎の生涯(誕生からビタミンB1(オリザニン)発見まで)
鈴木梅太郎はビタミンB1とビタミンAを発見しそれぞれの抽出方法を発明した日本を代表する発明家です。彼は米糠が脚気(当時多くの人を苦しめた病、ビタミンB1不足により発症し最悪の場合死に至る)の予防に効果があることを発見しました。予防効果を発揮する物質がビタミンB1であり、彼の発見により多くの人が脚気から救われました。今回は鈴木梅太郎の生涯を詳しく振り返っていきます。
鈴木梅太郎は明治7年(1874年)に静岡県榛原郡堀野新田村(現在の牧之原市堀野新田)で、誕生しました。梅太郎の家は農業を営んでおり、彼は鈴木庄蔵の次男でした。
その後、地頭方学校(現在の牧之原市立地頭方小学校)に通いました。明治20年(1887年)には東遠義塾が開講し、入塾しました。翌年の明治21年(1888年)には若干14歳の少年の身で農作業をしながらも勉学への思いを捨てきれず、急に家出をして着の身着のままで一銭も持たずに静岡から東京までテクテクと歩いて!上京し、東京の神田にあった日本英学館(後の東京農林学校予備校)に入りました。さらに翌年の明治22年(1889年)には東京農林学校(明治23年に帝国大学農科大学となる)に入学しました。明治26年(1893年)には学業の成果が認められ、帝国大学農科大学をなんと総代で卒業しました。
さらに明治29年には帝国大学農科大学農芸化学科を卒業し、そのまま大学院に進学を決めました。明治34年(1901年)にはベルリン大学に留学しました。留学先ではエミール・フィッシャー(ドイツを代表する化学者、フィッシャーエステル合成反応の発見にて有名となる)の研究室で、ペプチド合成の研究に注力しました。
梅太郎は明治39年(1906年)の帰国後には盛岡高等農林学校の教授、東京帝国大学農科大学の教授を経験しました。
明治43年(1910年)に行われた東京化学会にて梅太郎は「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」の報告を行いました。この研究にて以下の3点が確認され発表されました。「1.ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気と同様の症状を発症したのち死ぬこと」「2.糠と麦と玄米には脚気の予防効果と快復させる成分が含まれていること」「3.白米には様々な成分が欠如していること」の3点です。この研究がきっかけとなり、梅太郎は糠に対して興味を持ち、糠の成分の化学抽出を目標として研究を行いました。
同年の12月に開催された東京化学会にて第一報を報告しました。その後翌年の明治44年(1911年)1月には東京化学会誌に彼の論文「糠中の一有効成分に就て」が掲載されました。その研究では糠に含まれる有効成分(後のオリザニン、ビタミンB1)は、脚気の予防効果のみではなく、ヒトや他の動物が生命を維持する際にとても重要となる栄養素であったことが確認されました。この研究はのちの「ビタミン」の概念を形作った歴史に残る研究でした。
その後、梅太郎はビタミンB1(オリザニン)の分離に成功し、明治44年(1911年)に特許権を獲得しました。

鈴木梅太郎の生涯(ビタミンB1(オリザニン)の抽出方法発見以降の活躍)
梅太郎はビタミンB1の成分を発見しましたが、先述の論文がドイツ語に翻訳された際には「新しい栄養素である」という文言がうまく翻訳されていなかったため、世界的に注目を集めることはなく、日本国内限定で知られることになりました。
特許を取得した明治44年(1911年)にオリザニンを正式に発売しました。大正8年(1919年)になり、島薗順次郎がオリザニンを用いた最初の脚気治療の報告を行いました。しかし、「オリザニンは本当に脚気に効果があるのかどうか」という点において医療業界から疑問の声が多発していました。疑問の声の理由としては、以下の2点です。1つ目としては「もともと軽度の脚気の場合特別な治療を必要としなくても安静を維持することで快復に向かうこと」、2つ目としては「当時のビタミンB1の抽出方法では微量の成分しか抽出できず、重症の脚気患者には顕著な効果が見られなかったこと」が挙げられます。これらの背景から有効とも無効ともいえない状態が続いていました。
時は経ち、昭和6年(1931年)にはオリザニンの純粋単離に成功し、翌年の昭和7年(1932年)に開かれた脚気研究会にて香川昇三がオリザニンの「純粋結晶」は脚気に効果がある成分であるとの発表をしました。
しかしながら、それにも関わらず、当時は日中戦争による食糧難により、年間の脚気による死亡者数は1~2万人と一般人にとっては難病でした。その理由としては、ビタミンB1の製造を天然物質から抽出しており高価格だったこと、もともと消化吸収率が低い成分のため経口摂取による治療が困難であったことが挙げられました。
1950年代後半となり、アリナミン製薬株式会社が発売したアリナミン(錠剤、栄養ドリンク、武田製薬からは処方箋医薬品も発売されている)とその類似の商品が販売されるまでは脚気は国民を苦しめ続けました。
オリザニンはこの世で最初に抽出されたビタミンでした。梅太郎がオリザニンに関する研究を続けたことにより、世の中のビタミン学の基盤が形成されました。多くの人々が長い間脚気に苦しみ続け、多くの人が効果のある治療薬を確立するのに尽力し続けしました。その結果、脚気の治療薬が確立され、健康維持に不可欠なビタミンの知識が普及したことに鈴木梅太郎の研究が貢献したことは紛れもない事実です。
昭和18年(1943年)に梅太郎がこの世に残した功績が認められ、文化勲章を受章しました。同年の9月20日腸閉塞により、息を引き取りました。
 
鈴木梅太郎の代表発明品
鈴木梅太郎はビタミンB1(オリザニン)とビタミンAの分離・抽出に成功しました。ここではこの2つの発明についてご紹介していきます。
鈴木梅太郎は当時原因不明だった脚気に対して関心を抱きました。ニワトリやハトの実験から、米糠に含まれる成分が脚気の予防効果があるという事実にたどり着きました。その後、梅太郎は世界で初めて米糠からオリザニン(後のビタミンB1)を発見して、その抽出方法を発明しました。
その後、理化学研究所にて高橋克己とともに研究し、タラの肝油からビタミンAを発見し抽出する方法を発明しました。このビタミンAは「理研ビタミン」という商品名で販売されることとなりました。今日では聞きなれるようになった「ビタミン」ですが、これは鈴木梅太郎が研究を続けた功績です。鈴木梅太郎は日本並びに世界を代表する発明家です。

 今回はビタミンB1とビタミンAを発見し抽出方法を発明した発明家、鈴木梅太郎の生涯を振り返ってみましたが、いかがだったでしょうか。梅太郎のビタミンB1の発見により 脚気による死亡者は激減しました。さらに現在ではインスタントラーメンにビタミンB1が添加されるなど、世の中に広く浸透し私たちの健康維持に欠かせなくなっています。このように普及するまでには鈴木梅太郎の並々ならぬ努力がありました。普段は何気なく聞いていた「ビタミン」という言葉かもしれませんが、このような歴史を知るだけでも今後の見方は変わってくるのではないでしょうか。今後も生まれてくるであろう新たな発見が楽しみですね。

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