【SKIPの知財教室(IP Hack)】日本の十大発明家 御木本幸吉(養殖真珠の発明家+ミキモトグループの創業者)
2021.12.03
SKIP
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。そこで、日本政府は、歴史的な発明家として永久に功績を称えるにふさわしい10名を学識経験者の方々に選出していただき、選ばれた10名を十大発明家としました。今回はその一人、「御木本幸吉(みきもとこうきち)」についてご紹介します。貝の体内から生成される「真珠」は、今や宝石の代表と言っても過言ではないのではないでしょうか。1960年代には養殖真珠市場において、日本の輸出金額は100億円を超えるなど、非常に大きな市場となっていました。この市場の拡大は御木本幸吉が人工的に真珠を作ることに成功したためです。今回は、真珠を世界中に広め認められた御木本幸吉の生涯を詳しく振り返っていきます。
御木本幸吉の生涯(誕生から特許取得前まで)
御木本幸吉は真珠の養殖を確立し、養殖真珠のブランド化に成功して現代の宝石産業の基礎となったといっても過誤ではない、日本を代表する発明家です。
ここではそんな御木本幸吉の人生を誕生から振り返りましょう。
御木本幸吉は安政5年(1858年)に志摩国答志群鳥羽城下の大里町(現在の三重県鳥羽市鳥羽一丁目)で生まれました。彼の家は代々うどんの製造と販売を行っており、「阿波幸」の長男として誕生しました。幸吉は幼名として吉松と名付けられていました。彼の父であった音吉はうどんの商売よりも機械類の発明と改良に関心があり、明治14年(1881年)には粉挽き臼の改良をして三重県から表彰されていました。そのころ吉松は正規の教育を受けることはありませんでしたが、栗原勇蔵や岩佐孝四郎たちから読み書きやそろばん、読書などを習っていました。
うどんで生活をすることは厳しいと感じた吉松は青物商(野菜全般を顧客に運び販売を行ういわゆる小売業)や米穀商(米を顧客に運び販売を行う小売業)などを行って生計を立てていました。
そして明治11年(1878年)のときに20歳で家督(かとく、家父長制における家長権を意味する)を相続して、御木本幸吉になりました。その年の3月に東京や横浜を訪れ、真珠の売買を見学しました。この時に地元志摩の特産品であった天然真珠が中国人への有力な商品になると確信し、この出来事が幸吉の原点となりました。そして彼はすぐさま行動し、海産物商人になりました。海産物商人としては、アワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣、天草、サザエなど多種多様の海産物を扱っていました。
当時の装飾品市場の動向として世界的に「天然真珠」が高値で売買されており、海女が天然の真珠を一粒見つけるだけで高額収入を得られるという状況でした。その状況が原因となり、志摩のみならず全国的にアコヤ貝(真珠を作ってくれるカイ)は乱獲の対象となり絶滅の危機がありました。その背景から明治21年(1888年)に幸吉は貝の養殖を始めましたが、その貝たちが真珠を生むことはなく、失敗に終わりました。そこから幸吉は海産物商人から「真珠の養殖」に目的を変更し、アコヤ貝の生体の研究と並行して真珠の養殖に取り組み始めました。
明治23年(1890年)には上野で開催された第3回内国勧業博覧会に参加し、真珠やアコヤ貝、真珠入りの商品を出展しました。その際に審査官だった東京帝国大学教授の箕作佳吉に「真珠の人工養殖はできるかもしれない」と言われ、幸吉の養殖への道を決定的なものにしました。
同年より幸吉は真珠の養殖の研究を本格的に開始しました。しかし、実際には問題は非常に多く複雑でした。具体的には、アコヤ貝自体の問題、どんな異物を貝に入れるのか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物をどこに入れるのか、死んでしまわないか、貝にとっての最適な生活環境、貝の絶滅の対策などが挙げられました。
4年の研究を経て明治26年(1893年)に、養殖したアコヤ貝の殻の内部に半円形の養殖真珠を生成することに成功しました。
明治29年(1896年)の1月27日に、幸吉は半円真珠で最初の特許権(特許第2670号、明治29年)を取得しました。この半円形の養殖真珠は、従来の真珠とは少し趣きが異なっていましたが、装身装飾の貝として世の中に広く広まっていきました。
御木本幸吉の生涯(最初の特許取得以降の活躍)
幸吉は最初の特許取得後も人工養殖による真珠の生成を研究し続けました。その後明治41年(1908年)には真珠質被着法に関して特許権を獲得しました。
大正7年(1918年)には、これまでの技術的実証の実験により、良質な真珠を大量に生産できるようになっていました。翌年の大正8年(1919年)には、ロンドンの宝石市場に提供できるまでになっていました。しかし、大正10年(1921年)に、ヨーロッパの宝石商が、養殖真珠は天然真珠との見分けがつかず偽物であると騒ぎ、訴訟にまで発展してしまいました。結果としては大正13年(1924年)にパリにて行われた真珠裁判で、「天然と養殖には全く差がない」という判決を受け、御木本側は全面勝訴しました。これがきっかけとなり、世界的に幸吉の人工養殖による真珠の価値が世界的に認められるようになりました。
これまでは真珠の生産地が志摩地方ばかりでしたが、全国的に広がっていきました。昭和24年(1949年)には、真珠養殖事業による国際親善に対して、中日文化賞を受賞しました。一方そのころ、天然真珠を最大の輸出資源としていた中東諸国は養殖真珠の世界的な普及により次々と経済崩壊を起こしていました。経済崩壊により真珠以外の市場を模索した結果、中東諸国では油田開発が盛んになっていきました。中東諸国の油田市場は世界的にも大きな市場であり、現在にもつながる大きな変革期でした。
幸吉は真珠と真珠貝の養殖の研究・開発には満足せず、真珠を宝石市場でも中心にするためのあらゆる策を行い、最後まで努力していました。真珠に関する多数の特許を取得して、世界的な宝石産業を明るくしたことは紛れもなく彼の残した功績です。
昭和29年(1954年)に老衰により96歳でこの世を去りました。
御木本幸吉の代表発明品
御木本幸吉は真珠関連の特許を多数取得しました。具体的には「半円真珠から真円真珠に到る特許」、「特に半円真珠に関わる加工上の特許(容飾特許)」、「アコヤ貝養殖方法に関する特許(養殖籠・海底けい籠)」、「母貝が子貝を生み育てる為の(仔蟲(しちゅう)被着器)の特許」などが挙げられます。
ここでは御木本幸吉の代表発明である養殖真珠に関してご紹介します。まず、天然真珠はどのようにつくられるかご存知でしょうか。一般的に、アコヤ貝の中に砂などの異物が混入すると、身を守る目的で真珠質と呼ばれる物質を分泌して異物を包み込みます。その真珠質の層が厚みを増すことで、私たちが知っているあの丸い真珠ができるというプロセスです。
この仕組みを利用したのが幸吉の養殖真珠です。研究を重ね、養殖したアコヤ貝の殻の内部で真珠を生成が可能なことを発見し、養殖真珠の特許を取得しました。養殖真珠は世界的に広まり、当時は日本を代表する輸出品にまで上り詰め「ミキモト・パール」の名で世界に普及し、世界の真珠市場の6割を占めるまでになりました。
今回は養殖真珠を発明した御木本幸吉の人生と代表発明品について詳しく解説してきましたが、いかがだったでしょうか。今でこそなんとも思わずお金を払えば手に入るようになったかもしれませんが、安定的な供給には彼の大きな努力がありました。「人工」は場合によっては聞こえが悪く、実際に幸吉自身も問題に発展した過去がありました。その一方で質の高さから養殖真珠の発明は世界的にも認められ日本が誇る素晴らしい発明の一つです。今後もテクノロジーの発展によって様々な発明が生まれるでしょう。どんな世界になっていくか非常に楽しみですね。