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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー からくりの発明家 飯塚伊賀七(江戸時代後期に建築・和算・蘭学などを学び、からくりや和時計を数多く製作した天才からくり発明家)

じっくりヒストリー IP HACK

2025.09.29

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。エレキテルは、平賀源内が作ったとされる静電気発生装置です。しかし、一説には違う人が発明したという言い伝えもあります。それが、江戸時代後期に活動した、谷田部の発明家の飯塚伊賀七です。彼は名主を務めるかたわら、建築・和算・蘭学などを学び、からくりや和時計を数多く製作しました。そのほか、飛行実験や地図製作、多宝塔や五角堂の設計など多方面で活躍し、村人を驚かせました。「からくり伊賀」や「からくり伊賀七」の異名を持ち、平成時代には「つくばのダ・ヴィンチ」という呼び方も生まれました。今回はそんな飯塚伊賀七の生涯を振り返っていきましょう。

飯塚伊賀七の前半生(名主をしながら数々のからくり人形を発明して村人を驚かす)

飯塚伊賀七は宝暦12年3月29日、常陸国筑波郡新町村で、飯塚家の16代目として生まれました。広大な田畑や山林といった土地を所有する飯塚家は豪農であり、豊富な農作物が収穫できたため非常に裕福な環境で過ごしていました。伊賀七は幼い頃から発明に関心があり、特に数学が得意でした。科学に対する興味が彼を成長させ、のちに数多くの発明品を残しました。

伊賀七が発明家としての才能を開花させたのは、40歳代も後半を迎えた頃でした。この頃には名主の地位を降りていたとされる一方で、71歳になる天保4年には他の名主とともに農民の釈放を藩に願い出るなど、名主としての活動は続けていたものとされています。

発明品は実にさまざまな種類があり、人々を驚かせました。彼は発明や設計に必要な計算を行うために、縦34cm×横37cmの巨大なそろばんを作りました。面積を取らないように寛永通宝を珠に使い、その数は合計で648個にものぼりました。このそろばんについて、川に打ち込まれた杭が抜けず人々が困っているところに伊賀七が現れ、このそろばんを使って計算して杭の抜き方を指示したところ、すぐに杭が抜けたという逸話が残っています。

発明をしながら、伊賀七は晩酌を楽しんでいました。自分で酒を買いに行くのが面倒になった伊賀七は、自宅の斜め向かいにある酒屋にお使いができるからくり人形を発明しました。人形は酒瓶を持って音を立てながら自動で酒屋まで歩き、酒屋まで行くと酒屋の主人に酒瓶に酒を注いでもらうと、伊賀七宅に向けて帰っていったそうです。酒瓶に酒を一定量以上入れないと動き出さないような仕掛けもあったとされ、酒屋は量をごまかすことはできなかったとされています。

人形本体は現存していないものの、酒のお使いに使用されたとされる備前焼の酒瓶は残されています。また伊賀七は似たようなからくり人形として豆腐屋まで豆腐を買いに行かせるための「トウフ買い人形」もあったとされています。さらに酒買い人形やトウフ買い人形と同じ原理を利用して、茶くみ女というからくり人形も発明しました。訪問した客をもてなすために作った人形で、茶碗を乗せると自動で進み、茶碗をとると自動で止まる設計になっていたそうです。

人形のみならず、伊賀七は人力飛行機の発明にも携わりました。筑波山から谷田部までの約20kmの距離を飛行するために、彼は試行錯誤を重ねました。藩主に飛行の許可を撮りにいったところ、「人心を惑わす」「殿様の頭上を飛ぶなどもってのほか」などの理由で藩に捉えられ、この飛行機は破壊されてしまったといいます。

飯塚伊賀七の後半生(からくり人形だけではなく建築作品でも活躍する)

伊賀七は発明品に加え、建築でも優れた作品を数多く残しました。彼の経歴について明確に記されている資料は少ないものの、若い頃に宮大工などから本格的な建築を学んだのではないかと考えられています。

代表的な建築作品には、伊賀七生家跡に残されている五角堂が挙げられます。これは伊賀七の子孫の飯塚家に残る唯一の有形物です。また、千葉県柏市にある布施弁財天の多宝造鐘楼堂も伊賀七によって生まれました。土台は八角形、塔身は円筒、屋根は四角形という珍しい構造で、この複雑な設計を実現するのに当時の技術では苦戦を強いられました。言い伝えによると、大工は伊賀七の設計図通りに鐘楼堂の組み立て作業を行いましたが、どうしてもうまく行かない部分がありました。伊賀七のもとに使者を送り、すぐに来てもらうようにと頼みにいきましたが、伊賀七は的確なアドバイスを使者に伝え、その通りにすると建築はうまくいったという逸話が残っています。

あるとき、伊賀七の家は火事にあってしまいます。応急処置として伊賀七自身が建てた母屋が子孫代々大事に使われ、1950年に買い取られるまで存在しました。

発明家であり、名主としての仕事もまっとうした伊賀七は、天保7年に74歳でその生涯を終えました。戒名は「壬午院規矩誉丙申器表居士」で、谷田部西町の道林寺にある飯塚家墓地に入っています。

今回は、江戸時代後期の発明家・飯塚伊賀七の生涯を振り返りました。数多くの発明品と建築作品で人々を魅了した伊賀七の生涯は実に素敵なものでした。「つくばのダヴィンチ」とまで称された彼の功績は現代にも伝わっています。彼のような人物が存在したからこそ、発明は時代とともに形を変え、発達してきたのかもしれませんね。

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