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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 交流送電システムの発明家 セバスチャン・フェランティとルシアン・ゴーラール(電流戦争と呼ばれる特許紛争で火花をちらしあった宿命のライバル)

2023.07.21

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。電気に関する開発も、偉大な発明として現代に語り継がれています。初期の送電システムを作り上げた人物が、セバスチャン・フェランティとルシアン・ゴーラールの二人です。といっても、彼らは共同で研究をしていたわけではなく、むしろ送電システムを巡って対立した関係性にありました。フェランティはのちに交流電力に関する現象の「フェランチ効果」に名を冠した人物で、偉大な発明家として称えられています。科学者同士のぶつかり合いによって生まれた電力の考え方は、電気工学の基礎として現代でも使用されています。今回はこのセバスチャン・フェランティとルシアン・ゴーラールの生涯を振り返っていきましょう。

セバスチャン・フェランティとルシアン・ゴーラールの前半生(同時期にそれぞれ重要な発明をする)

フェランティは、イギリスのリバプールで生まれました。写真家の父とピアニストの母親のもとに生まれたフェランティは良家の跡取りとして育ち、芸事や学問を熱心に行いました。教育熱心な家庭で育ち、学校も名門校に通って学問を修めることになります。

フェランティは、幼い頃から電気工学に関する才能を顕にしていました。彼が最初に行った発明は、13歳の時です。外灯用のアーク灯を発明し、周囲を驚かせました。16歳のときにはジグザグになった電機子を配置した発電機を開発し、これをのちにフェランティ発電機として特許を取得します。大人になったフェランティはロンドンのチャールトンへ赴き、シーメンス兄弟のもとで働き始めました。1882年には電気器具を設計・製造する工場を立ち上げ、それをきっかけにフェランティ・トンプソン・アンド・インス社を設立しました。

ときは少し遡り、フェランティがリバプールで生まれる4年前。パリでのちの天才となるルシアン・ゴーラールが生まれます。ゴーラールは、イングランドで相棒のギブスと共に変圧器を開発しました。1881年、二人はロンドンで変圧器を公開し、その3年後にはトリノでも公開。のちにこの変圧器は送電システムに採用されることになります。この変圧器の特徴は、電圧を任意で変更できることにあります。当時のイギリス法では、電力事業者に対して使用者に電気器具の仕様を変更できないように定められていました。電力事業者が特定の電球使用によって独占権を得られないようにするためのものでしたが、電圧を自由に変えられる変圧器の登場によって、状況は一変しました。しかし、電圧を変えるためには鉄心を出し入れする必要があり、磁気回路が開いたままになります。これによって、磁界の損失が指摘されていました。

セバスチャン・フェランティとルシアン・ゴーラールの後半生(電流戦争と呼ばれる特許紛争で火花を散らす)

1882年以降、ゴーラールは変圧器に関する特許を出願しましたが、これを阻んだのがセバスチャン・フェランティです。1880年代の末ごろからは電流戦争として知られるようになる程、電力伝送に関する議論が巻き起こりました。セバスチャン・フェランティとルシアン・ゴーラールはその当事者として、激しく衝突しました。

フェランティは早期に交流支持につき、イギリスでは数少ない交流システムの専門家の1人となりました。1887年、フェランティはロンドン電力供給会社の一因となり、発電所の設計を行いました。そこでフェランティは発電所の建物や発電システム・配電システムを設計し、専門家としての地位を確立していきました。1891年にシステムは完成し、世界初の近代的な発電所となりました。このシステムは、現代でも用いられている方法であり、現代電気工学の基礎といっても過言ではありません。フェランティの会社はのちにイギリスを代表する送電システム会社となり、社名も「フェランティ」へと変更されるようになります。

フェランティは1910年〜1911年の間、イギリス電気技術者協会の会長になり、1927年には王立協会のフェローに選出され、栄華を手にしました。

一方、電力システムの特許戦争に敗れたゴーラールは、アメリカに訪れ、ウェスティングハウス・エレクトリックにアイデアを売却し、自身は社員として働き始めました。ここでは初めての実用的な変圧器を製作しました。変圧器自体は真新しいものではありませんでしたが、より簡単に製造でき、大量の電力を取り扱えるようになりました。ウェスティングハウスは、交流送電網の実験のためにゴーラールの変圧器とシーメンスの交流発電機を大量に輸入し、実験を行いました。

晩年、ゴーラールはパリに帰り、地元の病院で息を引き取りました。発明に関する特許が失われてしまったことがきっかけで、最後は理性を失い、失意のままこの世を後にしたとされています。彼を讃える記念プレートが、イタリアのランツォ・トリネーゼに建てられています。

今回は、交流電力システムの構築に関わった二人の科学者、セバスチャン・フェランティとルシアン・ゴーラールの生涯を振り返りました。方や交流送電システムを構築し、栄光に輝いた天才。方や特許戦争に敗れ、歴史の影に消えてしまった天才。現代に語り継がれる偉業の裏側には、競争に敗れた人物がいることもまた事実です。それでも、電気工学の発展を築いた功績に変わりはありません。歴史に名を残した人物だけではなく、その裏にいる人にスポットを当ててみるのも面白いですね。

 

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