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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 「氷山空母」の発明家 ジェフリー・パイク(科学者、発明家、スパイとして活躍したマッドサイエンティスト)

2023.07.14

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。しかし、中には実用化には至らなかった発明も存在します。奇想天外な発明で知られるのが、イギリスの発明家であるジェフリー・パイクです。彼は兵器に関する発明を行い、現代でも有名な発明家として名を残しています。特に有名な発明が、氷山を活用して空母とする「氷山空母」の構想です。今回はそんなジェフリー・パイクの生涯を振り返っていきましょう。

 

ジェフリー・パイクの前半生(スパイであることがバレて収容所で苦しむが脱走に成功)

ジェフリー・パイクは、1893年にイギリスで生まれました。発明家として語られることの多い人物ですが、科学者や発明家、スパイとしても活動していました。生涯で数々の発明をしてきたパイクですが、発明の多くは実現が困難な代物でした。彼の生活習慣はメチャクチャで、発明に特化していました。乱れた食生活と清潔感のない見た目は、マッドサイエンティストだというにふさわしいものでした。

パイクは、幼い頃から壮絶な人生を歩みます。5歳のときに、父親が死去。パイクの父親はユダヤ人であり、弁護士家業を営んでいましたが、家族に財産を残すことはありませんでした。残された母親は、パイクを陸軍将校の家系が集まる私立学校に入学させ、勉学を行わせました。父母ともに敬虔なユダヤ教徒であったため、パイクにもユダヤ教の服装や食事の作法を強制しました。当時はユダヤ人への弾圧が厳しく、パイクは学校で壮絶ないじめを受けることになりました。このときの経験が、パイクをのちに狂気の科学者へと導くきっかけとなりました。

パイクは2年間いじめに耐え、この学校を退学。幸いなことに弁護士である父の優秀な頭脳を受け継ぎ、勉学にも才能のあったパイクは、名門ケンブリッジ大学へと編入することができました。ここでは法律を学び、パイクはさらに知見を高めていきました。

時は1900年代に入り、世界の情勢は大きく揺れ動いていました。ドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」とイギリス・フランス・ロシアの「三国協商」が対立を深めるさなか、サラエボ事件が勃発。一気に衝突は激しくなり、第一次世界大戦が始まりました。戦争が始まると、パイクは学術研究を中断し、特派員となりました。パイクはスパイとしてベルリンに潜入し、ドイツの情報を探る役目をになっていました。ドイツでは現地の人と繋がりを作り、民間人がどのように生活しているのかを垣間見ることができました。さらに、ロシアとの戦争の中で発達した機械化技術についても盗み見ることに成功。順調にスパイ活動が進むと思われたものの、身分を偽装して訪れた異国の地、そしてユダヤの血が流れる特徴から、パイクのスパイ活動はあっさり露見してしまいます。ドイツの警察に逮捕されると、ルレーベン捕虜収容所に拘置されました。

収容所内での生活は酷いもので、きちんとした食事は与えられず、衛生的にも耐えがたい環境に身を置くことになります。しかし、パイクは大人しく捕まっているような人材ではありませんでした。逮捕されたその年の内に綿密な脱走計画を企て、イギリス人の協力者を得て脱走に成功します。2人はまずオランダまで逃げると、そこからイギリスへと帰還しました。パイクは後にこの脱走劇を書籍にまとめ、販売しました。

1918年、第一次世界大戦はドイツの降伏により終焉を迎えます。この間に、パイクは伴侶をめとります。戦間期は金融業に専念し、事業者として経済を動かしました。パイクは伝統的な手法に頼らず、独自で編み出したシステムを考え出し、それをもとに投機を行いました。活動の全貌が外部に漏れることのないよう、複数の株式仲買人を通して独自システムでの投機を行いました。事業の出だしは好調で、しばらくの間は成功を収めましたが、やがて事業は傾き、1928年には無一文まで追い詰められました。家族を養うために、パイクは血の滲むような努力をし、なんとか食いつないでいったのです。

1930年代になると、ドイツ国内はナチスが支配するようになります。ナチスはユダヤ人を差別する運動を行っており、これを知ったパイクは大激怒。差別に対抗して、キリスト教の指導者たちにナチスを非難させる運動を始めました。その後は、スペイン内戦が勃発。パイクはイギリス義勇工業援助組織に参加し、医療品や患者を輸送するためのサイドカーを開発しました。また、ミズゴケ類とモスリンを組み合わせて、包帯の代わりに使用できるアイテムを開発したのもこのタイミングです。

ジェフリー・パイクの後半生(「氷山空母」を発明するが実用化されず)

少し時が経ち、世界情勢は再び悪化。ヨーロッパだけでなく、アジア圏でも各国の対立ムードは深まっていきました。1939年、第二次世界大戦が始まると、ドイツはヨーロッパ諸国と激しくぶつかります。イギリスも各国と同様、ドイツと戦闘を繰り広げました。この期間、パイクは「氷山空母」の構想を発表しました。この計画はハバカック計画と呼ばれ、コンバインド・オペレーションズが研究を行いました。ルイス・マウントバッテン伯やウィンストン・チャーチルも個人的な援助を行っていましたが、熱に弱く船体が溶けてしまうことや生活面の問題、造船のためのコストなど多くの問題があり、実用化には至りませんでした。

また、第二次世界大戦中にイギリスが行った北欧侵攻では、雪中でも兵士ができるような道具の開発に取り組みました。のちに「悪魔の旅団」と呼ばれる傭兵組織が結成されたのもこの時期です。

パイクは終戦後も、しばらくは発明家として活動を続けました。その後、睡眠薬で自殺を図り、1948年に永眠しました。

今回は兵器開発において突飛なアイデアを残したジェフリー・パイクの生涯を振り返りました。少年期から過酷な環境に身を置いていた彼が努力の末に数々の発明を残したことは、科学の発展にもつながりました。しかし、その頭脳を人を傷つける道具に使わなければならなかったのは、時代のせいでもあるかもしれません。便利すぎる技術はときに災いを呼び込むもの、ということは常々意識しておくべきです。

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