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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー 飛び杼の発明家 ジョン・ケイ(熟練の職人たちの反感を買ってしまい、特許の使用料の不払いに対抗するための特許訴訟の費用で破産した不遇な発明家)

2023.05.29

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。広幅の織物を従来に比べて2倍のスピードで布を完成させられる飛び杼も、歴史の中で生み出された発明品のひとつです。この飛び杼を発明したのが、ジョン・ケイという人物です。彼は織物の生産効率を爆発的に高めたことで讃えられた一方、それが原因で熟練の職人たちの反感を買ってしまい、さらには特許の使用料が払えずに母国のイングランドを追われるという、なんとも不遇な人生を歩んできました。今回はそんなジョン・ケイの生涯を振り返っていきましょう。

ジョン・ケイの前半生(飛び杼を発明する)

ジョン・ケイは、1704年、イングランド西部のランカシャー地方、ベリー北部のウォルマーズリーにて生まれました。ケイの家はヨーマン(自営農民)として生計を立てており、一家の5男として生を受けました。ケイは働くために家を出て、手織り機の筬を製造する職人のもとで見習い修行をしていましたが、弟子入りしてからわずか1ヶ月で「仕事をマスターした」と言い張り、家に戻りました。仕事をマスターしたのはケイの誇張というわけではなく、その後発明した金属製の筬はイングランド中で売れるほどの人気商品となりました。兄のウィリアムとともにイングランド国内を旅し、金属製の筬を織機に取りつける仕事を行いました。やがてベリーに戻り、1725年にアン・ホルトという伴侶を見つけます。その後もケイは織機の改良に取り組み、1730年には毛糸を製造する機械の特許を取得しました。

ケイの人生の中で最大の発明が、「飛び杼」です。飛び杼とは、経糸と緯糸を素早く通すことで、従来の2倍のスピードで布を織ることができる機械です。それまでの織機は杼を受け取るための助手が必要でしたが、飛び杼は使用者のもとに戻ってくる改良が施されていたので、一人でも布を折れるようになったのです。1733年、ケイは出資を募り、コルチェスターで飛び杼の製造事業を始めました。織機の生産効率の上昇という点では革命的な発明でしたが、広く普及すれば手織り職人たちの職を奪ってしまうということにこの時点では気がついていませんでした。実際に職人の一人が、イギリス国王に飛び杼の生産を中止してもらうよう請願したという記録も残されています。

また、飛び杼は生産効率の向上に役立つものの、糸自体の生産性が追いついていなかったため、もし普及すれば紡績業者も大きなダメージを受けることが予想されました。ケイはなんとか飛び杼を広めようとしましたが、毛織物業者を納得させるには至りませんでした。その後2年間は機械の改良に努め、より性能のよい飛び杼を開発していきました。

1738年、ケイはリーズに移り、事業を開始しました。しかし、ここでは特許料の不払いという問題が発生します。織物業者は飛び杼を使用していたにもかかわらず、納めるべき特許料を納めないという暴挙に及んだのです。これを受けてケイとその出資者たちは特許裁判をいくつも起こしましたが、勝訴した事例は少なく、裁判費用のみがかさむ結果となってしまいました。それに加え、織物業者たちは独自の組合を作って出廷費用をお互いに調達し、敗訴した場合でもダメージが少ない状況を作り上げていました。一連の裁判が終結した後、ケイはほぼ破産した状態となってしまったのです。

ジョン・ケイの後半生(フランスで発明を続ける)

裁判によって財政が苦しくなった状況でも、ケイは発明をやめませんでした。1746年には塩の製法を効率化する方法を見出しつつ紡績技術の改良に取り組みましたが、この取り組みを紡績業者たちはよく思いませんでした。このころになると糸の生産効率の問題も解消され、飛び杼も普及し始めましたが、今度は木綿糸の価格が上昇したことによって非難の目がケイに集められました。ケイのことをよく思わない職人が暴徒と化し、ケイは常に危険に晒される生活を送ります。特許使用料の徴収も思うようにいかず、暴力に怯える日々も限界に達し、ケイはフランスへと移住することを決意。フランスは繊維産業の技術革新を手厚くサポートしていることで有名であり、発明家の移民を集めていることもケイがフランスに移ることを決めた理由です。ケイはこの当時、フランスに訪れた経験もなければフランス語を話すことさえできませんでしたが、それでも状況を変えるべくフランスへと旅立ちました。

パリに到着後、フランス政府に技術を売る交渉を行いました。ケイは巨額の対価を求めましたが、フランス政府はこれを却下。しかし、3,000リーブルの一時金と毎年2,500リーブルの年金を受け取ることで合意し、フランス国内での地位を確立することになります。ケイはまずノルマンディーの織物業者に飛び杼の使い方を指導し、飛び杼生産の独占権を確保しました。

フランスで飛び杼が普及したのは、1753年ごろ。織物生産の機械化に伴って飛び杼が使われるようになった形です。しかし、このときに普及した飛び杼の多くはケイが発明したものではなく、特許料を払っていない模造品でした。フランスでも製造権の独占に失敗したケイはフランス政府と反目しあい、イングランドに戻ることになります。しかし、イングランドに戻っても状況はよくなっておらず、暴徒を避けるために1758年にはフランスに戻って定住しました。その後はイングランドを訪れることはあっても、移り住むことはありませんでした。1765年から1766年にかけて、ケイはイギリスのロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツに飛び杼を品評会に出品することを請願しましたが、賞を与えられることはありませんでした。1773年にはフランス政府からの年金が打ち切られたため、「飛び杼の指導者としてもう一度活動するために年金を復活させて欲しい」と申し出たものの、これは拒否されます。ケイはその後サンスやトロワで綿織物業者のために機械を組み立てる仕事をしていましたが、晩年の5年間はフランス政府からの報酬を1,700リーブルに減額されるなど苦しい状況が続きました。ケイは1779年に、フランス政府に、これまでの業績を示し、さらなる発明を行うことを提案する手紙を送っていますが、この手紙を最後に消息を絶ちました。このことから、ケイは1779年に没したとされています。

1903年になって、ケイが活動したベリーでは「素晴らしい天才で犠牲となった人物への償いをすべき」との考えが生まれ、ケイの発明を称えた記念碑が建立されました。

今回は、飛び杼の発明家であるジョン・ケイの生涯を振り返ってきました。イギリスとフランス、2つの国で過ごしたケイは、発明家として脚光を浴びることがないままその生涯を終えました。織物の生産を大きく効率化する機械を創り出したにもかかわらず、それを評価されなかったことには、忸怩たる思いを抱えていたのではないでしょうか。ともすれば歴史の裏に消えてしまいかねなかった天才のことは、せめて忘れずに称えたいものですね。

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