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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー 力織機の発明家 エドモンド・カートライト(多くの特許を取得して大工場を建設するが、新たな力織機の導入によって職を失うことを恐れた労働者の放火によって大工場を失った天才発明家)

2023.05.19

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。衣服やタオルなど布製の製品は、紡績機を使って効率よく大量に生産されています。産業革命が起こった中世のイギリスでは、この紡績機は手動で動かすものでした。大量の労働者が手作業で紡績を動かしていましたが、このやり方には問題も多くありました。例えば、多くの人を雇うために多額のコストがかかることや、労働者にとっては長時間労働を強いられることなどです。そんな悩ましい状況の中、紡績機を自動化する技術が生まれたことで、大量生産によるコストの改善や労働環境の改善が図られました。紡績機を自動化した力織機を発明したのが、イギリスの発明家であるエドモンド・カートライトです。カートライトは牧師として人々に教えを説きながら、発明家としても活躍しました。今回はエドモンド・カートライトの生涯を振り返っていきましょう。

エドモンド・カートライトの前半生(牧師として活躍)

エドモンド・カートライトは、1743年にイギリスのノッティングガムシャーで生まれました。古くから続く家系であり、兄弟には海軍軍人のジョン・カートライト大佐や貿易事業者のジョージ・カートライトを産み出した名家でもあります。家柄から、厳格な環境で過ごしていたカートライト。日々勉学に励み、幼少期はウェイクフィールドのクイーン・エリザベス・グラマー・スクールで教養を身につけました。その後はオックスフォード大学のユニバーシティ・カレッジでさらに学問を深め、やがて卒業しました。大学卒業後は40歳頃までイングランド国教会の牧師として働いていました。牧師をしながら、詩文学にも精通していたカートライトは1770年に詩集「Armine and Elvira」、1779年には「平和の王子」を出版しました。聖職者として信頼を置かれていたカートライトは、同年レスターシャーのゴードビーマーウッドの教区牧師となり、それから4年後の1783年にはリンカーン大聖堂の前衛として働きました。また、カートライトは従軍牧師としての経験もあります。ジョン・ラッセル公爵の邸宅ウォバーン・アビーにて、公爵の跡取り息子で、のちのイギリス首相ラッセル伯爵の教師としても働きました。

 

エドモンド・カートライトの後半生(牧師をやめて紡績機を発明)

カートライトは、牧師としてだけでなく発明家としても名高い人物です。40歳頃まで続けた牧師をやめると、発明家として転身します。1785年、リチャード・アークライトの水力紡績機の特許が失効すると、マンチェスター市内に錦糸が多く出回ることになります。水力紡績機の特許が失効する以前から織機の不足を感じ取っていたカートライトは、1784年に自作の力織機を設計しました。ここでカートライトが行った主な発明は、織機に送り出し機構や経糸と緯糸を停止する機構、織機動作中に経糸にのりを塗る機構を付け加えたことです。これらの作業が自動化されたことで、作業効率が大幅に上がり、コストをかけずに織物を大量生産することに成功しました。この設計がうまくいき、1785年に基本特許を取得。これに伴い、ドンカスターに織物工場を設立し、新たな商売を立ち上げました。カートライトは自動化を熱心に試みていたため、小割版を別々に動かす必要があったためクランクと偏心ホイールを導入したり、シャトルがボックスに入らなかった時に織機を自動停止するシステムを作ったりなど、効率をよくするための改良を惜しみませんでした。

カートライトが力織機に関する特許を取得したのは、1792年が最後です。この特許は、チェックや格子状の模様を織ることができる織機でした。織機に経糸を設置した状態でのり付けしたり、緯糸を設置する前にのり付けをしたりする方法を試しましたが、これらの方法では成功を収めることができませんでした。

カートライトはこのほか、次々に新しい技術を産み出していきました。力織機以外にも1789年の梳毛機や1792年のロープ製造機、1797年のアルコールによる蒸気機関などがその大きな発明の例です。しかし、順風満帆に見えたカートライトの工場は、1790年の火災で消失します。工場を経営する一人であったゴードン出身のロバート・グリムショーは、マンチェスターを中心として新たな織物工場を建設し、500台の力織機を導入することを考えていました。しかし、30台の力織機を設置した段階で火災が発生。工場は消失してしまったのです。この火災は、工場の労働者の一人が、新たな力織機の導入によって職を失うことを恐れて放火したことが原因とされています。この工場は焼け落ちましたが、再建されることはありませんでした。

当時、発明家の収入は厳しいもので、発明だけで暮らしていくことは難しいとされていました。カートライトが発明家として生きていけたのは、かつて牧師だった時代に公爵家との繋がりがあったことや、多くの人に知られる聖職者だったことが大きな理由です。1809年、英国議会庶民院はカートライトの発明による功績を称えて、1万ポンドもの賞賛金を送りました。その資金を持ってカートライトはケントに移住し、余生を過ごしました。1821年には王立協会フェローに選出され、後世に名を残すことになります。フェローの受賞から2年後、サセックスのヘイスティングで息を引き取りました。バトルにて埋葬され、彼の偉大な人生は幕を閉じました。

今回はイギリスの牧師・発明家であるエドモンド・カートライトの生涯を振り返ってきました。旧家に生まれ、若い頃から勉学に励んでいたカートライトは、牧師としての人生と発明家としての人生それぞれで広く名を知らしめた偉大な人物です。40歳を過ぎてから新たな発明を行い、多くの特許を取得した彼の努力はその他の人間に多大な影響を与えたことでしょう。カートライトが残した力織機の技術は、今もなお製造業を支える技術として受け継がれています。

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