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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー 野菜ジュースの発明家 ノーマン・W・ウォーカー(刑務所から出てきて野菜ジュースのビジネスをはじめるがビジネスはうまくいかなかった苦労人の発明家)

2023.05.08

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。野菜ジュースは、健康法のひとつとして知られています。そんな野菜ジュースの健康法を世の中に広めたのが、イギリスのビジネスマンであるノーマン・W・ウォーカーです。彼は健康食品の提唱者でもあり、自身が開発したジューサーを使って、生の野菜や果物から抽出したジュースを作りました。ジュースによって多くの栄養素を摂取できることを論文にとりあげ、野菜ジュースから健康に良い栄養素を摂取することを推奨しました。ウォーカーの著書は、現代の健康食品業界に大きな影響を与え、多くの人々に健康的な食生活を実践するきっかけを与えました。今回はそんなノーマン・W・ウォーカーの生涯を振り返っていきましょう。

ノーマン・W・ウォーカーの前半生(離婚を繰り返し職を転々とする)

ノーマン・W・ウォーカーは、1886年、イタリアのジェノヴァで生まれました。バプティスト派の牧師である両親のもとで、6人兄弟の次男としてこの世に生を授かりました。ウォーカーが野菜ジュースに強く惹かれたのは、若い頃に体調を崩したときのことです。青年時代のウォーカーは、フランスの地方にある農家と縁があり、そこで過ごした時期があります。そのとき、ウォーカーは体調を崩して、病床に伏していたのです。栄養をとるための野菜や果物を絞ったジュースを飲んだ時に、体調の回復を実感しました。野菜ジュースをどのようにして作るかを考えていたウォーカーは、台所で農家の女性がニンジンの皮を剥いているのを目にし、インスピレーションを得ることになります。ニンジンの皮の裏側には水分があることに気づき、これを利用してジュースを作るイメージが湧いたのです。ウォーカーはニンジンの皮を挽き、初めてニンジンジュースを作りました。

ウォーカーは野菜の研究を行いながらも、様々な業種を経験しました。1910年イングランドに住んでいたウォーカーは、ニューヨークに住む家族と合流して一緒に住むことになります。この時、入国審査官には「画家」として自分の職業を説明していましたが、そのほかに不動産の管理人なども経験していました。それから3年後、ウォーカーはニューヨークで知り合ったマーガレット・ブルース・オルコットと結婚します。その後は離婚したとの記述は残されていませんが、1943年にはヘレン・ルース・ケルビーとの結婚も報じられています。しかし、ウォーカーはどちらの結婚でも子供をもうけませんでした。

ノーマン・W・ウォーカーの後半生(刑務所から出てきて野菜ジュースを発明)

ウォーカーはニューヨークのブロートン新栄養学研究所の常務として、ニューヨーク・タイムズへの広告掲載に関与していました。6週間の研修を行なったのち、研究所に就職することを約束していましたが、ウォーカーはこの約束を反故にします。150ドルの授業料も返済せず、これが原因でウォーカーは訴訟を起こされます。当時47歳のウォーカーは3年以内の期間を求めない懲役刑を命じられたとされていますが、実際のどのくらいの期間刑に服していたのかは不明です。ウォーカーの行為によって、30人の卒業生は合計4,500ドルもの資金を失ったとされています。

ウォーカーは出所したのち、カリフォルニア州のロングビーチに転居しました。知り合いの医師とともにジュースバーを開き、宅配サービス事業にも手を広げていました。医師監修のもと、1930年までに特異性のある病状に対応した何十ものジュースの製法を考案しました。このとき、ウォーカーは大腸をきれいにするために新鮮なジュースを飲むことが大切だと考えていました。そこで、自作のジューサーである「ノーウォーク」を設計・発明しました。ノーウォークは時間をかけて野菜を粉砕するグラインダーとジュースを抽出するプレス機という構造で設計されています。これは非常に人気のあるジューサーとなりましたが、少しあとでサンフランシスコの保健所は非殺菌の野菜ジュースの製造・販売を禁止しました。しかし、ウォーカーは生の野菜から取れる栄養素が重要と考えていたため、拠点をカリフォルニア州に移して商売を続けました。1939年に第二次世界大戦が始まり、金属が不足していた中でも、ウォーカーはジューサーの製造をやめませんでした。

終戦後の1940年代後半、ウォーカーはユタ州のセントジョージに転居しました。ジュースを作るための工場を探していたところ、理想的な環境を得られる古い綿工場を発見します。しかし、ユタ州の保健所規則では生のジュースの製造は認められず、ウォーカーは苦しみつつ商売を行なっていきます。ウォーカーは工場の経営のためにビジネスパートナーと手を組んでいました。しかしその出資分を売却し、これまでのノウハウをまとめた健康雑誌を創刊しました。雑誌の運営を行いながら、数年間はアリゾナ州で健康牧場も運営していましたが、雑誌の執筆のために牧場の経営は断念しました。

今回は、イギリスのビジネスマンであり、野菜ジュースによる健康法を広めたノーマン・W・ウォーカーの生涯を振り返ってきました。彼が提唱した生の野菜や果物を砕いてエキスを抽出するジュースの製法は、多くの人々に健康的な食生活をもたらしました。現代でも野菜ジュースを生活習慣に取り入れている人は多く、そのきっかけとなったという功績も称えられるべきでしょう。服役経験や地元の法律などによって苦境に立たされながらも、野菜ジュースの健康法を広めたウォーカーの努力は忘れないようにしたいですね。

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