【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー 写真の発明家 トマス・ウェッジウッド(世界的に有名な陶器ブランド「ウェッジウッド」の設立者の息子に生まれ、写真を発明したが若くして亡くなった薄幸な発明家)
2023.05.01
AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。思い出や風景を切り取って残せる写真も、そんな発明のひとつです。歴史上で最初に写真の実験を行ったのは、イギリスの写真家であるトマス・ウェッジウッドだと言われています。トマス・ウェッジウッドは、世界的に有名な陶器ブランド「ウェッジウッド」の設立者であり、ジョサイア・ウェッジウッドを父に持つ人物です。進化論で有名なダーウィンの叔父にあたる人物であり、彼自身も科学者として研究に没頭していました。ウェッジウッドは、最初のピンホールカメラである「カメラ・オブスクラ」を用いて、現実世界の風景を現物して写真に残そうとしました。このことから、写真史を研究している人の中にはウェッジウッドを「最初の写真家」と呼ぶ人もいます。最終的にウェッジウッド自身はこの取り組みに成功しないまま若くして没することになりますが、ウェッジウッドが残した研究の成果と論文は、その後の写真家たちに大きな影響を与えました。今回はそんなトマス・ウェッジウッドの生涯を振り返っていきましょう。
トマス・ウェッジウッドの前半生(芸術に打ち込んだ青年時代)
トマス・ウェッジウッドは、1771年、イングランド中部のスタッフォードシャー州エトルリアで誕生しました。父親は「ウェッジウッド社」を経営するジョサイア・ウェッジウッドであり、トマス・ウェッジウッドも陶芸とは関係の深い生活を送っていました。芸術が生活の一部になっていたウェッジウッドは、陶芸以外の芸術をこよなく愛するようになります。ウェッジウッドは短命でしたが、存命中には画家や彫刻家、詩人などとの交流も深く、父の財産を相続してからは芸術家への支援も惜しみませんでした。
青少年時代のウェッジウッドは、芸術以外にも児童教育にも熱心に取り組んでいました。もっとも優れた児童教育を見つけるべく、日々研究に没頭しました。そんな観察の日々を過ごしたウェッジウッドは、やがて「脳が吸収する情報の大部分は視覚に由来する」ということに気づき、光や映像が教育に大きく関わっていることを発見しました。
ウェッジウッドは生涯において、結婚することはありませんでした。ウェッジウッドが女性と親密な関係にあったという事実は、そのような様子も周囲からすると見られなかったようです。彼が男色だとする明確な記録は残されていないものの、音楽的才能のある感性の高い男性に強く惹かれていたとされています。そんなウェッジウッドは、幼い頃から病弱であり、成人してからも倒れることがよくあったそうです。
トマス・ウェッジウッドの後半生(写真の発明をしたが若くして死去)
ウェッジウッドの大きな功績は、感光性がある化学物質を用いて、シルエット像を紙に現像することに成功したことです。写真の起源には諸説あるものの、きちんとした証拠が残されており、信頼できる事例としてはこれが最初のものなのだとか。ウェッジウッドは紙に写真を写すことを定着させ、カメラ・オブスクラで捉えた景色を撮影しようとしていたことでよく知られています。
最初に写真撮影の実験が行われた時期は、明らかにされていません。しかし、1800年より以前から、ジェームズ・ワットから間接的に助言を得ていたものとされています。それは、ジョサイア・ウェッジウッドに向けて送られた手紙の中身に書かれた内容からでした。ウェッジウッドにはアレクサンダー・チゾムという家庭教師がついており、科学的な知識はチゾムから教わっていました。その助言をもとに、硝酸銀を塗布した紙や白い革を様々な実験に用いていました。この実験の結果、紙よりも布の方が感光性が高いことに気づきます。当時のウェッジウッドの目標は、カメラ・オブスクラを用いて現実世界の風景を写真に残すことでした。しかしこの取り組みも虚しく、ウェッジウッドの存命中に成功にはいたりませんでした。それでも、ウェッジウッドは布に直射日光を当てることで被写体のシルエットを写したり、ガラスに描かれた絵を投影したりすることに成功しました。陽光の当たった部分はすぐに黒く変色し、影の部分は変色しないという結果でした。
ウェッジウッドは、慢性的な体調不良を抱えながらもブリストルの研究所を訪れます。そこで科学者であるハンフリー・デービーと知り合います。デービーはウェッジウッドの話を聞き、太陽光を塩化銀に当てることでガラスに描かれた絵を複製する方法についての論文を仕上げました。このころ、ウェッジウッドは34歳にしてこの世を去り、彼の残した研究やデービーによって伝えられることになります。
この論文はロンドンの『Journal of the Royal Institution 』誌で発表されました。しかし、この論文冊子はまだ誕生したばかりで、有名とは言えないものでした。デービーの説明は研究会などで取り上げられた形跡はなく、あったとしてもごく少数の科学者にしか伝わっていなかったと予想されています。それでもこの論文は1802年にようやく広く知れ渡り、1803年には化学の教科書に載るほどでした。写真は当時流行しつつあった産業で、まさにこれから参入しようと考えている科学者たちにダイレクトに影響を与えました。
しかし、ウェッジウッドは複写した画像を定着させることができませんでした。光への反応はどうしても起こってしまい、暗闇に布をおかない限りは全体が黒く変色し、最終的には画像がすべて黒くなってしまうという課題を抱えていたのです。
その後は写真への研究が進み、画像を定着させる方法が編み出されました。それが達成されたのは、1830年代のことでした。ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットとルイ・ダゲールという写真家が、それぞれの方法で生み出された画像を化学的に安定させ、その後の光への暴露に対して比較的反応しにくくなる手法を見出していました。1839年にはジョン・ハーシェルが、ナトリウム化合物の次亜硫酸塩を用いて、ハロゲン化銀を水溶液中に溶解させられることをすでに発見していたことを公表しました。これによって、画像の上に残された感光物質である硝酸銀を洗い流し、写真を本当の意味で「定着」させることが可能になったのです。
今回は写真史に名を残すトマス・ウェッジウッドの生涯を振り返ってきました。彼が発明した写真の技術は、その後技術が進化していき、カメラが登場する最初の一歩だといえるでしょう。現代ではSNSの投稿や自撮りに欠かせない写真も、初めは先人の地道な努力の上に築かれてきたものなのです。トマス・ウェッジウッドは若くしてこの世を去ってしまいましたが、もし彼がもっと長く生きていたら、写真史の歴史は違ったものになったのかもしれません。